開国か攘夷かで国論が二分した幕末の政局で、幕府大老の井伊直弼(いい・なおすけ)は、天皇の勅許を得ないまま日米修好通商条約の調印に踏み切ったことで尊王攘夷派の反発を招き、世論は倒幕へ大きく動き出す。
直弼は、危機を乗り切り開国政策を推進するため攘夷派の徹底的弾圧、拘束へ動く。安政の大獄である。
徳川御三家の一角でありながら、尊王攘夷の理論的支柱であった水戸藩の徳川斉昭は蟄居(ちっきょ)を命じられた。さらに外様の長州を激怒させたのが、藩の若手士族を指導、育成する松下村塾の塾長、吉田松陰の処刑であった。
教え子たちを中心に長州藩の若手士族たちは遮二無二(しゃにむに)に攘夷に動き、外国人たちを襲撃する。開国か攘夷かのイデオロギーではなく、開国の幕府を倒すには、攘夷の実行で揺さぶるという政治運動であった。
直弼の開国思想は、国家の現実政治をあずかる責任者就任前からの信念である。条約調印から遡ること五年、ペリーの黒船来航時に意見を求められた彦根藩主の直弼は、概略こう献策している。
「攘夷は現実的ではない。国防のための備えは時間がかかる。外国貿易は鎖国で禁じられているが、これも時代に合わない。外国と物品を交換し合うのは当然で、そこで利を得て、これを国防に回すのがよい。日本人は頭もよく物覚えがよいので、(貿易に必要な)航海術も、今から始めれば、西洋人にすぐに追いつく」
結果的には、維新政府が国是とした開国による「富国強兵」策の先取りであった。
政治は結果責任である。いかに高邁な理想を掲げても、現実に遂行できなければ意味がない。開国の理想を追及する余り、過度の政治弾圧によって志なかばで暗殺され、政策を遂行すべき政府(幕府)を倒されては意味がない。その責任は直弼にあることは間違いない。目的のためには、妥協、決断を繰り返して、掲げた理想を達成する判断が求められる。
企業経営も同じことだ。経済活動の結果は利益という数字で現れる。より冷酷だろう。
対するに、幕府憎しで幕府を追い込むために、外国人襲撃、外国公館焼き討ちを繰り返した尊攘志士たちの動きの先に未来はない。それが現実的でないと知るや「攘夷」の看板を下ろして「倒幕」一本に掛け替える。
その先に、「鬼畜米英」を叫び展望のない戦いに駆り立てた先の敗戦への道が待ち構えていた。維新以降もくすぶり続ける攘夷の呪い。壮大なつけを支払うはめになった。(この項、次回に続く)