福島正則ら豊臣恩顧の将たちを決戦の地となる尾張、美濃へと進発させた家康は、小山で会津の上杉が動けぬように手を打った後、8月4日には江戸へ引き返した。
しかしその後は、譜代の将、旗本たちを手元に置いたまま8月末まで、ほぼひと月を江戸城から動かなかった。
ただ時日を過ごしていたわけではない。戦う前の必勝の態勢を固めに入っていたのだ。全国の武将、大名に対する手紙作戦である。
家康が諸国に発した書状は、東に下る7月には34通、江戸に籠った8月には87通、9月も15日の関ヶ原合戦までに36通にも上った。情勢が緊迫した7—9月の間に発した書状は176通にも達している。
それまでは月に数通が確認されているだけであるから異常な多さである。
その内容は、領地を安堵保証し、必要に応じては新規領地の「あてがい」を約束したものだ。東西両軍の間で態度を決めかねているものには特に丁重に、徳川方への勧誘をおこなっている。
明確に取引の利益を示して誘導し、決断を促す。現代の企業活動でいえば、営業の王道である“ラブレター作戦”を、心憎いばかり見事に展開している。
レター作戦は、各地で家康方について西軍の包囲戦に抵抗し奮戦を続けている大名にも向けられた。
決戦まで1か月となった8月14日には、九州で戦う加藤清正に肥後・筑後の進呈を約束し、両国の平定を促している。また、同日付けで細川忠興に出した書状では、細川領地の丹後の他、但馬を加増している。
これは、忠興の父・幽斎が丹後田辺城で奮戦し西軍を引きつけたことへの感謝の表明であった。
石田三成が「豊臣秀頼守護」を掲げ、大義で大名、諸将を誘引しようとしたのと鮮やかな対照を見せている。
「大名たちはお家第一。具体的な利益がなくては理屈だけでは動かない」。家康は武家の行動原理を見抜いていた。
この間、尾張の清洲の居城に到着した正則らからは、「内府殿(家康)は何をしておる。怖じ気づいたか」と出陣を促す要請が相次いだ。
しかし家康は、「まだやることがある。西軍の総大将である毛利輝元を合戦前に口説けぬものか」と思案をめぐらせていた。 (この項、次回へ続く)