ポーツマスにおける日露講和交渉は、2か月に及んだ。
韓国の保護国化とロシアの不干渉など、前回述べた日本側の「絶対的必要条件」については、ロシア側が次々と折れた。ロシア全権大使のウイッテとしては、焦点を領土要求と賠償の拒否に絞り込んでいる。
仲介に立った米国のルーズベルト大統領は、賠償にこだわり戦争継続も辞さずと頑なな日本の全権・小村寿太郎の姿勢に次第に苛立ちを募らせた。
ウイッテが取った新聞抱き込み工作が効果をあらわし、日を経るごとに米国内の世論が「和平を望まぬ日本」として反日に傾いていくのを大統領として無視するわけにはいかない。
業を煮やしたルーズベルトは、伊藤博文の側近として日露開戦後に渡米し、米国との交渉にあたっていた金子堅太郎男爵を通じて、日本政府中枢に対して「もはや日本は金を取るために戦いを続ける意味はない。平和に対する文明社会の期待に応えてほしい」と通知した。
これに対して小村は反発し、「今こそ戦争を続けるしかない」と東京に打電した。満州からは、児玉源太郎・満州軍参謀長が、「もう一兵の予備もない。継戦不可能」と繰り返し伝えてきていた。
閣議では、大蔵省は「これ以上、戦費は出せる状態ではない」と妥協を具申した。軍からも寺内正毅陸相まで、「士官が欠乏しており、これ以上戦えない」という意見を表明。政府は、「賠償放棄、和平」の方向で一致した。
小村は全権大使として、日本政府の事態収拾への強い意思を完全に読み違えたのであった。というより小村の反抗は、政府内タカ派として「厳しい国際情勢をわかっていない。国益のため自分がリードするしかない」と信じる確信犯であった。
交渉にあたる全権の立場を超えている。だれを交渉人に選ぶか、本国(本社)とどうスムーズに意思疎通を図るかが、国際交渉の肝である。
小村には、頭越しで日米政府が進める妥協の動きに、「米国は、アジアでの日本の伸長を抑えこんでロシアに変わって満州に権益を得ようとしている」という強い反発があった。
賠償は得られなかったが、ルーズベルトの斡旋もあって日本は交渉の最終局面でサハリン(樺太)の南半分の割譲を勝ち取った。
客観的に見れば、交渉結果はまずまず、日本の粘り勝ちでもあった。
しかし失意のうちにポーツマスを発った小村は直後に、外相として、この後四十年ひきずるアジア外交敗着の一手を打ってしまうのである。 (この項、次回に続く)