先代の寵臣として異例の昇進
前々回取り上げた小田原藩改易事件で家康の忠臣、大久保忠隣(おおくぼ・ただちか)に謀反の濡れ衣を着せ追い落とした本多正純(ほんだ・まさずみ)のその後の話である。 天和2年(1616年)に徳川家康が死去すると、駿府で家康に重用されていた正純が遺言に基づいて約300万両といわれる遺産の分配を差配した。幕府が開かれて以来、小姓として創業者のそばに仕え、家康がもっとも信を置いていただけに表立って異を唱えるものはいなかったが、その後の強引な振る舞いは次第に、天下取りの戦いを家康とともにしてきた宿老たちの恨みを買うようになる。
下野(しもつけ)小山藩5万3千石の知行地を与えられていた正純だったが、家康の死から三年後、「大御所様(家康)の遺言による」として、宇都宮15万5千石の太守の地位に上り詰めた。しかも、二代目秀忠の政権では執政(のちの老中)の一人として名を連ねている。すべて先代の寵愛と威光による人事だった。
これでは譜代の幕閣たちの嫉妬と恨みが醸成されるのは必至だ。
さらに正純はオーナー家の恨みをも買った。正純の宇都宮転封で古河藩に追いやられた奥平家には、家康の長女である亀姫が嫁いでいる。秀忠の姉にあたる。亀姫は、秀忠に移封を撤回するように嘆願するが受け入れられなかった。
先代の遺志とあっては二代目にもいかんともし難い。だが、当の秀忠も正純の横暴には業を煮やしていた。遺産配分の際も、正純は、御三家や家康の愛妾たちには分配分を送ったが、秀忠分については「将軍家への遺贈分である」として、駿河久能山の宝庫に納めてしまったのだ。二代目として先代の色を消し、「秀忠統治」を強めたい秀忠は、時の経過とともに「何様のつもりか」と、正純を憎むようになる。
権力と財力の分散原則を破る
15万5千石の知行は譜代大名として異例に多い。百万石と言われた加賀前田家や薩摩島津、仙台伊達などの大藩はいずれも外様である。中央政治に関わる幕閣では10万石を超える大名は数えるほどだ。これは家康が幕府を開いて以来の方針で、権力と財力をあわせて持つことがないようにした家康流の統治原則、〈国のかたち〉だ。それを正純は一気に踏みにじることになった。
こうした独善による横暴は、宇都宮での藩運営でも次々とあらわれる。宇都宮は東北諸藩ににらみを効かせる軍事的要地だ。そこで正純は軍事力の強化に乗り出す。
一つめは、鉄砲の購入だ。執政の一人として幕府に提案すれば認められるはずだが、彼はこれを秘密裏に進める。
二つめは、宇都宮城の改修だ。正純は二の丸、三の丸の修築を幕府に届け出ただけで、なぜか本丸の石垣も改修してしまう。幕府は各藩の防衛力強化を恐れて城の普請を厳しく制限していた。実際に秀忠は家康の死後、関ヶ原で第一の軍功のあった外様の雄、福島正則に対して、広島城の改修で難癖をつけて改易に追い込んでいる。その危険を知らぬはずがないにも関わらず、正純はこれを実行する。
三つめは、幕府から派遣されていた特殊部隊の根来衆(ねごろしゅう)100人を、この城普請に動員する。根来衆らが「我々は軍事組織であり土木作業に駆り出すとは何ごとか」と反発すると、その多くを斬り殺した。
いずれも、法はあっても自分は特別な存在だとの思い上がりが背景にある。こうした所業の情報は、亀姫、幕閣たちによって密かに収集されていた。そして・・・
身の程知らずのなれの果て
元和八年(1622年)4月、秀忠は家康の七回忌追善のため日光の東照宮を参詣する。宇都宮はその道中にあるが、秀忠は帰途、宇都宮城にはよらず江戸へ直帰した。「本多正純は宇都宮城内で秀忠暗殺を企んでいる」との緊急情報が入ったためだ。
そして幕閣たちから報告を聞いた秀忠は決断する。幕閣らは正純を奥州へ公務で誘き出し、その地で「宇都宮15万5千石を没収の上、出羽国由利5万5千石を与える」と通告した。知行3分の1での移封である。寛大な処分だったが、正純のプライドが許さなかった。正純はこれを蹴り、最終的に秋田の佐竹家に身柄を預けられ、幽閉されて生を閉じる。
本多家処分を聞いて、かつて小田原で本多正純の冤罪密告により同じく配流となった大久保忠隣の縁戚である大久保彦左衛門は、「無実の忠隣を陥れた因果を受けた」と快哉を叫んだと伝えられている。
しかしこの実話の教訓は、〈因果応報〉などではない。〈虎の威を借る狐〉の末路の物語と見ればいい。先代君主の寵愛で何一つ苦労せず世を渡ってきた身の程しらずのエリートが代替わりで陥りがちな落とし穴である。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『徳川三代99の謎』森本繁著 PHP文庫
『別冊歴史読本 御家騒動読本』新人物往来社
『二代将軍・徳川秀忠』河合敦著 幻冬社新書