膨大な金がかかる新幹線構想の実現までには、予算不足問題がつきまとった。
執念を燃やす第四代国鉄総裁の十河信二(そごう・しんじ)が構想実現の切り札として賭けた世界銀行の融資は、昭和36年に決定した。融資額は8,000万ドルにとどまり、国鉄の要求の2億ドルには及ばなかった。
しかし世銀が求める「国による計画実現の保証」という外圧は、昭和39年秋の東京五輪までに完成させるという国の威信をかけた「期限切り」とともに工事を押し進める原動力となった。
着工から開業までわずか5年の突貫プロジェクトは、技術開発、用地買収、土木工事ともに順調に進んで行くかに見えたのだが…。
十河は、国会で予算を通すため、3000億円と見込まれた総工費を6割の1900億円に圧縮してごまかしたことは先に触れた。これが十河の足下をすくうことになる。
政治家から相次ぐ地元の地方新線建設の陳情を蹴り、在来線の予算を可能な限り新幹線工事に振り向けてしのいだ。しかし、工事が終盤にさしかかるにつれて、ついに予算不足が露呈することとなった。
事業推進のための政治的方便は、一見して賢智に見えたとしても、結局は愚策である。ごまかしはいつか身にはね返る。十河がそれを知らぬわけがない。
ではなぜ。解き明かすべき謎がある。
さらに十河は国鉄の官僚主義的体質を壊すために、民間から国鉄監査委員に招いた石田禮助(いしだ・れいすけ)とともに大胆な人事政策を推進する。
旧帝大系以外からも新卒者を幹部候補として採用し、ノンキャリア組も実力主義で幹部に登用した。
これが組織内のエリート“官僚”たちの反発を招いていた。敵は政治家のみならず身内にも増殖し、内外から「十河下ろし」の声が高まってくる。
十河がそんな苦境に陥っていた昭和37年5月3日夜、常磐線で三河島事故が起きる。脱線、転覆した貨物列車に上下線の満員電車が相次いで突っ込み、485人の死傷者を出した。
「在来線の安全性が新幹線工事の犠牲になった」と、世論は一斉に反発を強める。
翌年、約900億円の工事予算が上積みされたが、それでも800億円の予算が不足していることが明るみに出て万事窮す。
十河は昭和38年5月、志半ばで国鉄を去る。技師長として支えた島秀雄もまた、「こう百鬼夜行の状態では、とてもお役には立てぬ」と言い残して国鉄を辞した。
東海道新幹線の開業は1年半後に迫っていた。 (この項、次週も続く)