長州藩の始祖、毛利元就(もうり・もとなり)には三人の子があった。
臨終に際して、三人に、束ねた三本の矢は容易に折れないことを示し兄弟の結束を促したという。よく知られた「三本の矢」の逸話である。
武家は原則として親から子へと藩の経営権をつないでいった。オーナー企業でも同様だろうが、子が複数いた場合、だれに継がせるかは悩みどころである。
場合によっては継承をめぐって内紛も起きかねない。そんな例は多々ある。
策略家と知られた元就は、なかなかの知恵を発揮している。
初め安芸の国(広島県)にあった毛利家は、東に尼子、西に大内という二強に挟まれ、苦しい経営を余儀なくされていた。
元就は性格穏健な長男の隆元に本領を継がせることを早々と決断し内政を任せた。
武家の常道としては、次男の元春、三男の隆景(たかかげ)は家臣として長男を支えることになる。しかし元春、隆景はともに長男に劣らず才気あふれ、内紛が起きるのは必至だ。
そこで元就は、元春を北にある吉川家に養子に出し、日本海沿いの出雲から伯耆(ほうき)の国を治めさせた。
また隆景を、西に隣接する小早川家の世継ぎとし送り出し、瀬戸内の山陽道から、のちには北九州までを与えた。
養子問題はその時代なればこそだが、元就の決断を現代風にいうなら、後継者の兄弟に子会社を設立させ、その経営に専念させることで、力が内に向かうことを避けたのだ。
毛利家が、中国地方の西半分から北九州を治める雄藩に発展する基礎はここにあった。
次男、三男を養子に出すにあたって、元就が幼少時代の二人の適性を見抜いたこんな逸話がある。
ある時、元春と隆景が従者を連れて左右に分かれ雪合戦をしていた。元春は勇猛果敢に攻め立てる。勝負あったかと思われた時、隆景が隠していた二人が左右から打ちかかって撃退した。
これを見ていた元就は、「北国の人は質実剛健、南国は交際上手で計略を好む。元春を北国に、隆景を南国に」と決めたという。
有名な三本の矢の教えについてであるが、史実をたぐれば、元就臨終の際には長男はすでに亡く、次男は在陣中であったから、よく
できた作り話である。
父は切羽詰まった死に際して息子たちの結束を説いたのではなかった。早々と子供たちの適性を見抜き、適材適所で手を打っていた。先代の今わの際の遺言は混乱の元だ。
元就に学ぶべき、後継問題の要点はそこにある。