中国・唐の第二代皇帝である太宗(たいそう)がある時、近臣たちに問いかけた。
「創業と守成いずれが難きや(事業を始めるのと、いったんでき上がった事業を保ち守るのとでは、どちらが難しいか)」
太宗の父、高祖は隋末の政情不安の中で、隋の皇帝を廃して帝王の地位についた。しかし、国内の大半は唐には服さず、太宗が軍事的才能を活かして周囲の諸国を攻伐し、はじめて真の建国がなった。
太宗は、皇太子だった兄を殺して力づくで天下を奪った過去がある。周囲を平定すると武力にかえて文による治世を開く。年号をとって「貞観(じょうかん)の治」と言う。
中国史上最高の名君とされる太宗が問いを発したのは、そのころのことである。
太宗と国家創業の困難をともにした宰相・房玄齢(ぼうげんれい)は、「割拠する群雄を降伏させて天下を平定した苦労を考えますと、創業の方が難しいでしょう」と主張した。
これに対して貞観の治を支えた重臣の魏徴(ぎちょう)は、「天下が治まると気が緩み驕(おご)りも生まれます。国の破滅は常にこれが原因となります。守ることの方が難しいのです」と反論した。
太宗は、「どちらも理がある」とした上で、「しかし創業の困難はすでに過ぎ去った。これからは諸君とともに守りの難しさを心してやっていこう」と決意を伝えたという。
太宗の下問は、国家の創業と守りの時代を一代で経験した者の悩みの吐露でもあった。
しかし創業者がまず意を用いるべきは、後継者の選定と育成であることはいうまでもない。しくじれば、「守成」どころではない。
往々にして創業者は、苦労を重ねて困難の中に道を切り開くことに終わる。偉業の成否は次代にかかってくる。聡明な太宗は、偉業を次代に引き継ぐことに成功したのか。
太宗は即位と同時に長男の李承乾(りしょうけん)を皇太子に選ぶが、承乾は長じるにつれて遊興にふけるようになる。
太宗は四男の李泰(りたい)を重用し、承乾は嫉妬から四男の謀殺を企てて抗争に発展し、二人とも廃位、追放された。
太宗の死後、第三代皇帝・高宗となったのは最も凡庸な九男で、太宗が後宮に抱えた妃を皇后(則天武后)に迎える。
則天武后は外戚の力を背景に皇帝の地位に上り、政治を操り天下は千々に乱れることとなった。
創業者に課せられた最大の「守成」は、後継者選びに尽きるのである。