家康に窮地を救われ佐和山城に籠る三成は、執念深く家康追い落としの機会を狙っていた。
三成にも策略はあった。秀吉が息子の秀頼の後見を託した前田利家の死去で、天下は秀頼が暮らす大坂城の西の丸に第二天守を構えた家康の独裁状態となっていた。
五大老のうち、国元に帰った毛利輝元(広島)、上杉景勝(会津)は、家康に大いなる不満を抱いている。二人に呼びかけ東西から家康を討てばいい。
「それには、家康を秀頼から遠ざけ、秀頼を奉じて兵を起こせば名目も立つ」
三成は、家康が上方を離れる機会をひたすら待った。
そして1年。慶長5年(1600年)6月、ついに機は訪れた。家康は、「会津の景勝は城を修築し兵糧を集めており、反秀頼の謀反を企んでいる」として、会津征討の軍を起こす。
家康が秀頼公謁見のための大坂参内を呼びかけたのに景勝が応じなかったことは豊臣臣下の諸将も知るところである。秀頼が無視されたとあれば遠征に加わらざるを得ない。
約6万の兵が東海道を下って行った。京、大坂にぽっかりと軍事の空白地帯が生じた。
三成は、「時至れり」と手を打ったに違いない。その思いを隠して家康に使者を送り、子の重家の従軍を願い出ている。
本意を隠蔽する工作を施す一方で、直ちに家康の討伐軍出発を会津の景勝に知らせている。計画通りに事は進行していた。
そこは家康のこと、上方を留守にして軍事空白ができれば、三成が動き出すであろうことは織り込み済みであったろう。
18年前、同様に京の軍事空白を奇禍として、明智光秀が本能寺に織田信長を襲った事変の記憶を、当時命からがら堺から三河へ逃げ戻った家康が忘れるはずもない。
家康は出発に際して徳川方の上方拠点である伏見城に立ち寄り、守将・鳥居元忠に、1800の兵を託して防備を指示し命じた。「ゆめゆめ上方の動きの報告を怠らぬように」
元忠は覚悟していた。別れに際して家康に「もし事が起きれば、これがお目にかかる最後となるでしょう」と涙ながらに死をも厭わぬ決意を示した。家康もしばらくむせび泣いた。
伏見城は壮大な政治劇の碁盤上の捨て石であった。三成は、おびき寄せられるように、家康の罪状を並べ立てて決起する。
ともに立ち上がった宇喜多秀家、小早川秀秋らが率いる西軍4万の兵が、伏見城を包囲し戦いの火ぶたが切って落とされた。
関ヶ原の合戦まであと2か月。三成と家康の必勝を期した知恵競べが続くことになる。(この項、次回へ続く)