三成の戦略は次のようなものであった。
1.五大老の一人、毛利輝元を安芸・広島から大坂に招いて秀吉の遺児・秀頼を奉じる西軍の総大将とし、その招請を元毛利家臣の安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)に託す。
1.家康とともに東下した諸大名が京・大坂に残した妻子の帰国を禁じ人質にとる。
1.東西決戦の地を美濃・尾張に求め、その中核、岐阜城主の織田秀信(信長の孫)を秀頼の後援者に引き込み、家康を迎え撃つ。
計画は着々と進み、7月16日には毛利輝元が海路、大坂に入城した。
西軍に集う諸将は、近畿・山陽道だけでも40名を数え兵力は9万3700人。会津に向かった徳川方の6万を越える。
早速開かれた軍議の席で副将の宇喜多秀家(備前・岡山)は優勢に自信を見せ、「座して敵を待つことはない。先手をとって出陣して威勢を誇示すれば敵の士気を奪うことになろう」と檄を飛ばした。
三成は、決戦の前に勝負はついたと、満足げに聞いていたろう。
「家康に従ったとはいえ、大半は豊臣恩顧の将たちだ。秀頼に刃向かえるわけがない。さらに人質も取られているとなれば、離反は時間の問題だ」と。
三成の自信は家康の苦悩でもあった。
まだ消息はないものの、三成決起は出立の時に織り込み済みだ。三河以来の譜代の将士に懸念はないが、“長征”に連れ出し手元にある豊臣恩顧の軍勢をいかに引きつけ、西軍に立ち向かわせるか。さて、どうしたものか。
三成決起の報が、伏見城の守将、鳥居元忠から早馬で届いたのは、家康が江戸を経て下野の小山に到着した7月24日であった。
「大坂の諸将ら敵となり、近く伏見城攻撃が予想される。死力を尽くし城を固守する」
家康は翌日、徳川勢とともに豊臣恩顧の将たちも集めて軍議を催した。世にいう「小山評定」である。
そこで家康は上方の情勢を伝え、意外な言葉を切り出した。
「三成は諸士の妻子を人質に取ったらしい。三成を助けようとする者は、この場から立ち去られたい。私はなんら恨むところはない」
人質作戦を逆手に取った、人の心理に精通する家康ならではの心憎い演出であった。
去るも留まるも自由意志。この“芝居”が劇的な効果を生み出すことになる。(この項、次回へ続く)