四国を拠点に織田信長亡きあとの天下の一角を狙った長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)。豊臣秀吉を敵に回したことで、土佐一国に押し込められたことは前回、書いた。
どうも元親という男、大勝負を前にすると行動をためらう傾きがある。周辺に「熟慮」を言いながら、「ためらう」のである。
「秀吉は気に食わぬ」と言うのであれば、四国に大軍で攻め込まれる前に、元親にも豊臣政権阻止のチャンスはあった。
天正12年(1584年)4月、徳川家康は、一時は信長後継と目された織田信雄(のぶかつ)を担いで、尾張の小牧・長久手方面で秀吉軍と対峙した。秀吉による四国攻めの二年前のことである。戦いは、家康が野戦の才を発揮して圧勝する。さらに畿内の秀吉に圧力をかける。
ここで家康と信勝は勝負に出る。四国の元親に畿内への出兵を促した。畿内の秀吉を東と西から挟撃しようという狙いだ。秀吉の政権はまだ固まらない。元親が背後をつけば、天下は家康と元親の手に落ちる可能性が高かった。
しかし、再三の出兵要請に元親は動かない。逡巡(しゅんじゅん)したのである。秀吉と家康、どちらが天下に近いかと。
秀吉と家康は、にらみ合いを続ける。七か月後の11月、元親は大坂上陸を決断する。しかし実行に移す寸前に事態は動く。秀吉、家康が電撃的に講和を結ぶ。家康にしてみれば、長期戦は不利と見て、東国を支配下に置いたまま、次の機会をうかがうことにしたのだ。
元親が素早く決断し動いていれば、徳川政権の成立は早まり、元親は重要な地位を占めたはずだが、その機会を失した。
「元親殿は天下を取る気があるのか」と秀吉が後にからかったエピソードは、この逡巡をいう。
元親は、夢を果たせぬまま、関ヶ原合戦の一年前にこの世を去る。
その天下分け目の合戦で、後継者の盛親(もりちか)は、元親の遺言に基づいて西軍(石田三成方)につく。しかし、盛親は、主戦場から東にはずれた南宮山に陣取り、合戦が終わるまで観望し兵を動かさなかった。
「敵にまわしても味方にしても長宗我部は頼むに足りんのお」。家康はそう思った。
四国の覇者は、熟慮の末に勝者を取り違え続けた。接戦であった関ヶ原で兵を動かさなかった「熟慮」をもって家康に擦り寄る手もあった。しかし、長宗我部は大坂の陣で豊臣方につき、取り潰しの憂き目に遭う。
熟慮と逡巡は天と地ほどの差がある。