薩摩の西郷隆盛らによる王政復古のクーデターで政権を朝廷に奪われた幕府の軍が大坂城から京都に向かったのは、慶応4年(1968年)1月2日だった。
いったんは、軍事行動を自重して京を引き揚げた最後の将軍、徳川慶喜(よしのぶ)にとり、この時点で政治情勢は有利に動いていた。朝廷の大勢は、慶喜を新政府の首脳部に迎え入れる方向で固まりつつあった。
旧幕府軍の暴発を待って軍事決戦で一気に徳川勢力の一掃を目指す西郷は、江戸城下での強盗、火付けを指示し幕府を挑発した。
幕府軍大坂出発を確認した西郷は、「よし、これで徳川の時代は終わる」と快哉を叫んだ。慶喜は西郷の罠にはまった。
旧幕府軍は、各地で暴行を働く薩摩を討つべしという慶喜の「討薩の表」を朝廷に届けるべく大坂を出発した。その数1万。迎え撃つ薩長兵は5000に満たない。
しかし、旧幕府軍を京都へ入れては、薩長は朝敵となり京を追放される。維新の試みも挫折だ。逆クーデターに備え、決死の覚悟を決めている。戦いは決意性の高い軍が勝つ。
翌三日、兵を率いて鳥羽街道を北上する幕府軍は、薩摩兵と通せ通さぬで押し問答となる。強行前進を始めるや、待っていたかのように薩摩藩兵の銃砲が火を噴いた。
幕府軍の銃には銃弾も込められていなかった。「大軍勢を見れば、新政府軍は怖気づいて逃げ出すだろう」との甘い見通しがあった。
同時に東に数キロ離れた伏見でも、長州兵が幕府軍の籠もる伏見奉行所を砲撃し焼き払う。両戦線とも京の入り口の東寺に陣取る西郷が指揮を執る。
旧幕府軍は装備で劣っていたわけではない。フランス式に訓練を積んだ伝習兵という近代装備の部隊も戦いに参加している。銃も連発性能に優れる仏製のシャスポー銃を備えていた。それでも敗れる。戦う決意と準備がなかった。鳥羽、伏見街道の二手に別れた軍を統括する指揮官も存在しない。
退却路にあたる淀藩では、反撃拠点を求める幕府軍の開城要請を拒否した。さらに淀川沿いに退却する幕府勢に、対岸、山崎の関門を守る津藩から猛烈な砲撃が加えられる。
淀藩も津藩も徳川譜代の藩である。時代の分かれ目、多くの藩が日和見を決め込んでいた。緒戦の情勢を見極めて、だれもが勝ち馬に乗る。情勢は雪崩を打って傾き、動き出す。
京都では、「幕府軍動く」の報に怯えて西郷らをなじり、京都退去も決意していた倒幕派の公卿たちは、「初めから勝つと思うてましたんや」と息を吹き返す。
社内の権力争いでも、ライバル社との戦いでも、闘争とはそんなものであろう。戦うと決めたなら、手を尽くして緒戦を勝ち切れ。(この項、次回に続く)