江戸幕府から薩摩・長州勢力を中心とした新政府へ移行する明治維新の帰趨を制したのは、京都南郊で両軍が激突した鳥羽伏見の戦いの勝敗にあったことは異論を待たない。
軍事力では圧倒していた旧幕府軍の敗因は、第十五代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)の政治戦略の揺れにあった。
慶喜が政権を手放す戦略的決断を下した「大政奉還」から、薩長が軍事力を京都御所周辺に集中して強引に進めた「王政復古」の宮廷クーデターで揺れた慶応3年(1867年)終盤の政局は、下野した徳川家の扱いをめぐり綱引きが続いていた。
言い換えると、新しい政体が旧幕府勢力の主導の下で組織されるか、薩長による革命的政権となるかは、いまだ不透明であった。
薩長のクーデターで形の上では天皇中心の新政府ができたとはいえ、財源のめども立たず官僚機構もない。土佐、越前、宇和島藩などの雄藩の藩主たちは、「政権を手放したとはいえ、最大の領地を持つ徳川“藩”を抜きに政治運営は不能」として、天皇のもと、徳川を首班とする列侯連合政権構想を模索していた。主導する土佐藩主・山内容堂(やまのうち ようどう)による朝廷、諸藩への政治工作は実りつつあった。
15歳の幼い明治天皇を戴く朝廷に判断能力はない。慌ただしい倒幕の動きに押され続けた徳川家は、事態を静観していれば、勢力を温存できる有利な立場にあった。
慶喜は、二条城でクーデターの報に「いま一気に薩摩藩を攻撃すべし」と激昂する会津、桑名兵、旗本ら約一万を説得し、葵の旗を押し立てて整然と大坂城へ引き上げた。
慶喜は、「余に深謀あれども、今は明言せず」と、憤る会津藩の隊長たちに言い渡している。
一方の薩長勢力は、武力倒幕に打って出て徳川勢力を一掃し、財政基盤を固めるために徳川領地を奪うしか残された道はない。開戦の口実のため旧幕府軍の暴発を期待していた。
慶喜は、薩長の挑発に乗らず武力行使自重の道を選んだ。賢明な判断だった。鳥羽伏見での開戦の20日前のことだ。
京都で倒幕派公卿の岩倉具視(いわくら・ともみ)を通じて朝廷工作を続けてきた薩摩藩の大久保利通は、「慶喜は大坂で兵を整え京都へ攻め上るに違いない」と震え上がり、 敗北に備えて、「玉(ぎょく)」と大久保らが隠語で呼ぶ天皇を密かに御所から地方へ移す計画まで立てている。
幕末の政局はまさに、政治小道具としての権威=「玉」の奪い合いなのだ。
兵を動かさなくとも、政治主導権は徳川に転がり込む。それが、慶喜の戦略であったはずだが、20日後に、なぜか旧幕府軍は「薩摩征伐」を朝廷に訴えるため京に向けて進発する。政治的必勝戦略が揺れ、山内容堂は天を仰いだ。