燃え盛るベトナム反戦運動
リチャード・ニクソンが米国大統領に就任した1969年1月、アメリカ国内は荒れに荒れていた。ベトナム戦争の泥沼化が原因だった。直前の民主党政権(大統領=リンドン・ジョンソン)下で戦火は拡大しジャングルでの戦闘で、すでに3万人もの若者が命を落としていた。米国全土の大学から街頭へ反戦デモが広がり、黒人暴動も頻発する。
ニクソンの共和党政権に国民が託したのは、ベトナム戦争の早期終結だった。選挙戦を通じてニクソンはベトナム戦争については沈黙を守ったが、ジョンソン政権が取った、北爆という強硬手段で北ベトナム政府を屈服させ停戦交渉の場に引き出そうとした力の政策では見通しがないことを見抜いていた。発想を転換して対処することを胸に秘めていた。
「ドミノ理論」からの脱却
旧宗主国のフランスがディエンビエンフーでの大敗で、ベトナムから手を引いたのを受けて戦争に介入した背景には、冷戦下で、アジアの一角が共産化してしまえば、周辺国がなし崩し的に共産化してしまうという恐怖に取り込まれていたからだ。いわゆる「ドミノ理論」だ。そのためにアメリカが自由主義陣営の責任国家として、中ソの連携支援を受けた北ベトナムによる南ベトナム併呑を阻止するという義務感に駆られていた。そのために50万人の若者が送り込まれた。
だが、ニクソンは、もっと広い視野で世界情勢を見ている。中国とソ連も同じ社会主義国ではあるが決して一枚岩ではない。ベトナムをめぐってもハノイの共産勢力が全土を統一すれば、ソ連の影響力が強化されて、中国は、南北の国境をソ連に圧迫される。それを嫌う中国は、ソ連の影響力のアジア浸透を牽制するためにも、毛沢東理論で主敵と規定する米国がベトナムで戦い続けて疲弊する状況が好ましい。
ベトナムは、歴史的に中国に虐げられてきた経緯があり、ホーチミンが率いる北ベトナムは、ソ連を引き付けて中国を牽制しつつ、ソ連の露骨な領土的野心にも警戒を怠らない。インドシナには、複雑な思惑と力関係がぶつかり合っていた。ドミノ理論で単純に割り切れる世界ではなかった。
新しい発想が求められていた。時代の転換点に立つリーダーには、時代の流れを先読みし、新規の発想で先手を取り時代をリードすることが求められる。
新しい世界秩序としての「力の均衡」
大統領補佐官としてニクソンを支えたヘンリー・キッシンジャーは、ニクソンの外交理論とその実践力については、「傑出している」と評価している。ニクソンが、米国外交を隘路に陥れた「ドミノ理論」から脱却させるために用いた哲学が、地政学的考察に基づいた「力の均衡」の理論だった。ニクソンは、1972年2月の北京訪問に先立って、『タイム』誌上でこう述べている。
「世界史上、長期の平和が存在したのは、力の均衡が保たれていたときだけだというのを、われわれは忘れてはならない。一か国が潜在的な競争相手と比べてきわめて強大になるときには、戦争の危険が高まる。したがって、アメリカ、ヨーロッパ、ソ連、中国、日本が強くて健康であるなら、たがいに均衡を保ち合い、それぞれが争うことなく、平均した均衡のもとで、世界は安定でより良くなる」
この構想に基づいて、ニクソンは、冷戦下での敵国である中国、ソ連との対話を進め、至上命題であったベトナムからの「名誉ある撤退」を目指す。それが反戦運動でもたらされた国内での激しい社会対立を鎮め、ベトナム戦争で傷ついた国の威信と同盟国からの信頼の回復につながると信じて。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『キッシンジャー秘録 5 パリ会談の成功』ヘンリー・キッシンジャー著、桃井真監修 小学館
『国際秩序(下)』ヘンリー・キッシンジャー著、伏見威蕃訳 日経ビジネス人文庫
『ニクソンとキッシンジャー』大嶽秀夫著 中公新書