刀伊(とい)の来襲
平安時代中期の1019年(寛仁3年)3月末(以下旧暦)、対馬が突如、正体不明の異族の船団に襲われた。軍船約50隻に分乗した3000人の賊軍は島内を手当たり次第に荒らしまわって多くの島民を殺害、拉致し、さらに壱岐島に襲いかかる。あっという間に両島は壊滅した。勢いに乗る賊軍は九州北部に上陸し、蛮行を繰り返した。
後に、一団は中国東北部(満州)に住む女真族だと判明する。高麗王朝が彼らを呼ぶ民族名をとって「刀伊の入寇(といのにゅうこう)」と歴史書は記している。蛮行は二週間に及び、364人が殺害され、1280人が拉致された。
異族の侵入というと、13世紀の鎌倉時代に二度にわたった蒙古軍の襲来(元寇)ばかりが論じられるが、平安の王朝時代にも、九州沿岸はたびたび海賊たちによる略奪の被害に遭っている。こうした被害があまり知られていないのは、元寇について、「神風によって蒙古軍は撃退された」との伝説があまりに強烈で、「神国日本は古来、敵を寄せ付けない」という思い込みが後世の国民の意識に刷り込まれたせいでもある。
藤原隆家と九州武士団の奮闘
賊を迎え撃ったのは、外交・外事を担当する九州太宰府の権帥(ごんのそち=長官)として赴任していた公家の藤原隆家(ふじわら・たかいえ)だった。当時、王朝文化の栄華を極めていた朝廷の実力者、藤原道長(ふじわら・みちなが)の甥っ子だ。隆家は、公家とはいえ喧嘩っぱやくて豪のものとして知られており、道長とは反りが合わなかった。
彼が太宰府への赴任を願い出たのは、「病の治療のため」としているが、朝廷での出世争い、権力抗争に嫌気がさしたからであろうともされる。いずれにしても、未曾有の危機に対処する太宰府に隆家という逸材がいたことは巧まざる天の配材ではあった。
対馬・壱岐が襲撃されたとの一報を聞くと隆家は、素早く在地の九州武士団に動員をかける。当時の朝廷には、天皇の指揮で動く直轄軍はなかった。九州の武士団は、都から遠隔の地で在地勢力の反乱に対応する備えであって、夷狄の来襲への心構えはなかった。隆家は、的確に敵の動きを先読みし、博多から糸島半島、唐津に至る海岸線に数千の兵を配置し、上陸地点で敵を迎え撃った。
武士たちは、隆家の叱咤激励に応えて水際で奮戦した。前線での隆家の指揮は無駄がなく、刀伊の兵を海に押し戻し敗走させる。4月初めに始まった戦いは、中旬には決着し、太宰府軍は船で壱岐・対馬まで追撃した。
内向きの時代の平和ボケ
隆家からの一報が朝廷に届いたのは、およそ戦闘に決着がついた4月17日のこと。翌18日には、活躍した武士たちに恩賞を約束した勅符が発布されている。武士たちが奮戦した背景には恩賞への期待があった。ところが、朝廷はその後、「恩賞を約束したのは、戦いが終わった後だから無効」として約束を撤回してしまう。
さらに朝廷周辺は、事件の背後に高麗の手引きがあるのではないかと疑ってかかる。隆家は、高麗の尽力で帰国した人質たちからの聴取で、高麗沿岸でも刀伊の襲撃があったことを確認し、事件は海賊行為であることを報告しているが、現場を知らない公家たちは、疑念を拭えないままだった。
考えてみれば、7世紀後半に日本水軍が白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に敗れて以来、わが国は朝鮮半島との国交を閉ざしている。半島の王朝が新羅から高麗に替わっても、渡航禁止措置が続いている。政治は内向きになり、世界の動きが見えなくなっている。刀伊(女親族)が沿岸を荒らしまわっているのも、満州地方にあった渤海(ぼっかい)国が滅んだ後の力の空白から生じているというグローバルな視点も朝廷にはない。
そして、現在はどうか。半世紀にわたって世界を支配してきた米国という強大な軸が弱化して、その力の空白の中で、ウクライナにロシアが攻め込み、中東情勢も混沌としている。台湾海峡も不穏な情勢だ。さら米国に予測不能なトランプが大統領に就任して、世界中が不安に包まれている。
日本の政治は今、変化する世界情勢を踏まえた国防、経済安保への備えをできているのだろうか。平和ボケに陥っていないか。 (この項、次回へ続く)
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考資料
『刀伊の入寇 平安時代最大の対外危機』関幸彦著 中公新書
『日本の歴史5 王朝の貴族』土田直鎮著 中公文庫
『日本の歴史6 道長と宮廷社会』大津透著 講談社学術文庫