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- 逆転の発想(36) 屈服時にこそ胆力を見せろ(伊達政宗)
秀吉の怒り
天下統一に動く豊臣秀吉は、島津氏の勢力下にあった九州の平定を終えると、天正14年(1586年)、惣無事令(そうぶじれい)を発した。天皇を補佐する関白の地位を背景に諸国の大名に対して領土争奪の私戦を禁じたのである。
このころ、最大のライバルだった家康から恭順をとりつけ、もはや秀吉の威光になびかないのは、関東と奥羽地方だけであった。
奥州南部を拠点とする伊達政宗は、惣無事令を領土拡張のラストチャンスと見て、会津若松を居城とする蘆名氏の御家騒動に乗じて戦いに乗り出し蘆名(あしな)氏を放逐し、現在の宮城、山形の南部に加えて福島県のほぼ全域にまで領土を拡張した。
これに激怒した秀吉は、「わしの権威に逆らうのか」と、上洛して釈明するように求めた。そのまま上洛しようものなら領地没収はおろか切腹の処罰もありうる。22歳の若き政宗は生涯最大のピンチに追い込まれる。
時を同じくして関東を治める大名の北条氏も北関東にある旧真田領をめぐる小競り合いで「惣無事令違反である」と難癖をつけられ、上洛を命じられていた。北条方から政宗に「連合して事にあたろう」との要請が届く。政宗は応じ、北条は安心して上洛要請を引き延ばす。
相手を取り込む人間力
政宗はこの間、豊臣政権の大物、五大老筆頭の前田利家、五奉行に名を連ねる浅野長政に繰り返し手紙を送り、上洛・謝罪の条件について交渉を進めている。利家らには、馬産地奥州の駿馬を送り贈答工作も怠りない。賄賂である。これがのちに効果をあらわすが、とりあえず北条とは同盟を結んでいる。両面作戦で様子を見る。
秀吉は天正18年3月、京都を出立して北条討伐のため小田原攻めに向かった。全国に号令して動員した軍勢は21万。北条の後は伊達討伐だろう。これでは抵抗のしようもない。
そこへ利家から手紙が届く。「小田原攻めに参戦せよ。悪いようにはせん」。政宗は北条を裏切ることを決断した。
そこから政宗はさらに時間を稼ぐ。会津から直接小田原に向かわず、越後、信濃、甲斐と遠回りを重ね、小田原開城ひと月前の6月5日にようやく秀吉の軍陣に姿を見せた。
「遅参致したな、政宗め。もう少し遅れれば、これだったぞ」と秀吉は持っていた杖を政宗の首に当てた。もう少し到着が早くても、堅城攻めに手こずりいら立つ秀吉の逆鱗に触れて命の保障もなかったろう。計算づくで回り道しての遅参だった。
秀吉の前にかしこまった政宗は黒い弔い装束をまとっている。「母上が亡くなりましたので遅れました」。母思いの秀吉の機嫌取りを狙ったパフォーマンスだ。
無事退出した政宗はさらに、茶人の千利休が同道していることを知り、秀吉との間をとりなした利家に言う。「利休殿から茶の手ほどきを受けたい」。伝え聞いた秀吉は感心する。「田舎ざむらいと思うていたが、雅の心をもっておるのか」。
秀吉は政宗に伝える。「本来なら所領没収のところ、蘆名攻め以前の旧領82万石は安堵しよう」。死も覚悟した胆力と相手を知り尽くしてのパフォーマンスが功を奏した。
許す側の論理
蘆名氏放逐のあと、こんな逸話が伝わっている。新拠点の会津若松の黒川城に入った政宗に助言する。「領地も格段に広くなり、人の出入りも激しくなるでしょう。相応しい城に普請いたしましょう」。政宗は答える。
「城普請などに心を費やそうとは思わぬ。敵が押し寄せれば、境界で合戦して討ち果たすか、情勢が悪ければ領内に敵を引き入れて、領民と心を合わせて戦えばいい。私の心にあるのは、軍用の費用、そして将兵の忠功を賞し報いることだ。金と心はそれに使う」
小田原城が落ちて秀吉は大軍を率いて奥羽平定に向かう。政宗が信頼に値するかどうか、秀吉には一抹の疑いがあったに違いない。宇都宮に陣を敷いて、会津方面を偵察させる。政宗が新たに治めていた地域に謀反の動きは全くなく、諸城も秀吉軍を迎え撃つ備えのための普請のかけらもなかった。
この時、秀吉は、奥州平定の手引きは政宗に任せることを決めた。軍門に下るにあたって、「こいつは使える」と思わせることができるかどうか。そこから新たな一歩が始まる。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『名将言行録』岡谷繁実著 北小路健、中澤惠子訳講談社学術文庫
『戦国武将の手紙を読む』小和田哲男著 中公新書
『日本の歴史15 織豊政権と江戸幕府』池上裕子著 講談社学術文庫