ロンドンに到着した高橋是清は、早速に銀行家や投資家から情報収集を始めたが、話を聞けば聞くほど外債募集に絶望的となった。
2月の日露開戦後、すでにロンドンで発行していた四分利付のポンド債は、値を下げ続けていた。アジアの小国日本が大国ロシアに戦端を開いたことが無謀と受け止められ、シティの金融街では、「償還できないのではないか」と不安視されていたのだ。
ただでさえ、日本の公債はリスクを勘案して、金利にプレミアムが付加されている。それだけ人気がなかった。
さらに、英国人にとっては、異教徒の日本人とキリスト教を共有するロシア人とに対する親近感に格段の差があった。
当時、日英同盟(1902年締結)があったにもかかわらず、開戦後も英国は局外中立の立場を崩していない。
一方、高橋がロンドンで活動を始めた1904年4月初めの段階で、開戦から2か月も立たないのに、日本の戦費は底をつきはじめていた。本国からは、公債でなくても私債の形でいいからとにかく資金を調達しろと、矢のような催促が舞い込んでいた。
「戦いで勝機が見えるまで、公債募集は控えた方がよろしかろう」。そうアドバイスする英国の金融家もいた。体のいい断りであった。
4月3日、高橋是清は日記にこう書いた。
「林(董=ただす=駐英公使)は公債を絶望視している」。宿所のド・ケーゼル・ロイヤルホテルで寝付けぬ高橋は、「別方法で正貨を借り入れるしかないのか」と頭を抱えながらも、「戦いで勝機が見えるまで」という、アドバイスを反芻していた。
余談となるが、高橋が使ったホテルは、「ロイヤルホテル」とは名ばかりで、ロンドンに集まる商人相手の旅籠であった。明治時代の政府高官の海外出張では、当たり前であった。
高額出張費を指摘され、「都知事が二流のビジネスホテルに泊まれますか?」と開き直る御仁とは志が違うのである。
さて、焦らず情報収集を続けていた高橋に、待ち望む勝機、いや商機がまもなく訪れる。
4月13日、旅順港口での日露両海軍の小競り合いの最中に、ロシア太平洋艦隊の長官、マカロフが座乗する戦艦が機雷に触れて轟沈し、マカロフが戦死した。
戦いの行方に影響があるほどの事件ではなかったが、この事件への日本の対応が、日本という国家への信用を一気に高めることとなるのである。 (この項、次回に続く)
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※ 参考文献
『高橋是清自伝(上、下)』 高橋是清著 上塚司編 中公文庫
『日露戦争、資金調達の戦い―高橋是清と欧米バンカーたち』 板谷敏彦著 新潮選書