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挑戦の決断(38) 譜代随一の功臣を切る(徳川家康、秀忠)

指導者たる者かくあるべし

 大久保忠隣にかけられた謀反の濡れ衣

 それは唐突のことであった。慶長18年(1614年)正月19日、幕府は小田原城に幕臣を派遣して同城を没収し、藩主の大久保忠隣(おおくぼ・ただちか)を改易処分とした。小田原城は東海道の箱根の関所を控え、江戸の西の防御の要地だ。初代藩主の忠隣は、三河時代から徳川家に仕える譜代の家筋である。
 時は大坂の陣の直前で、徳川家康は幕府を開いたものの大坂城の豊臣秀頼勢力との間での力関係は微妙だった。生まれたばかりの幕府の行方も定まらない時代に功臣を切った。よほどのことである。
 創業者・家康は、征夷大将軍の肩書きを二代目の秀忠(ひでただ)に譲り、駿府に居を構え大御所として実質的な権力を行使していた。
 更迭劇は隠密裡に進められ、忠隣には、京都でのキリシタン禁止令の布告、実行を命じて上洛させ、留守の間に家康は駿府から、秀忠は江戸から小田原入りし、堅固を誇る小田原城の外郭の石垣を壊した。忠隣の側近たちが籠城戦で抵抗するのを防ぐためで、用意周到な準備がなされた。京都所司代から改易処分が伝えられた忠隣は、彦根藩預かりで蟄居させられた。
 直接の嫌疑は、幕府に無断で養女の縁談を進めたというものだが、それは表向きであることは明らかだ。「謀反を企てている」「豊臣方と通じているのではないか」との注進が相次いでいた。しかし、謀反の証拠は何もなく、濡れ衣であろうとされている。では、誰が冤罪を仕立て上げてまで、忠隣の追放を画策したのだろうか。

 邪魔になった先代の番頭

 まず疑われるのは、忠隣の軍功を嫉妬し、恨みを抱いていた譜代幕閣の本田正信、正純(まさずみ)父子だ。話は徳川秀忠が合戦に遅参した関ヶ原の戦いに遡る。
 西軍を迎え撃つために関ヶ原に向かった徳川軍は二手に分かれ、主力軍を任された秀忠は中山道を西進する。ところが秀忠軍は、小諸の真田軍の攻略に手間取り、合戦に間に合わなかった。有名な逸話である。この時の参謀が本田正信で、大久保忠隣は軍監として指揮を取った。正信は「真田は無視して進軍を急げ」としたが、忠隣は、「まず真田を討つべきだ」として意見が対立して軍議は混乱した。結果的には参謀として正信が責任を取るが、忠隣への恨みは残った。さらに、忠隣が家康に秀忠と正信の赦しを乞うたことも、正信の神経をさかなでした。「だれのせいで遅参したのか」との恨みである。
 同じ譜代とはいえ、正信には目立った軍功はない。能吏タイプである。対して忠隣は、三河一向一揆の制圧、姉川の戦い、小牧長久手の戦い、小田原北条攻めなどで数々の戦功を立ててきた。武田信玄軍と対峙した三方ケ原の戦いでは、敗れた徳川軍が算を乱して潰走する中、恐怖のあまり脱糞した家康を励ましながら、そばを離れず浜松城まで馬を引いた。家康の覚えがめでたい、頭が上がらない武将である。正信に取ってはライバルというより目の上のたんこぶ的存在だ。
 家康は駿府に退くにあたって、江戸に残る二代将軍秀忠の後見役として、タイプの違うこの二人を残した。これが秀忠をめぐる二人の確執を生んだ。
 なんの実績もない“二代目坊ちゃん将軍”からは二人はどう見えるだろうか。ともに創業者である先代の功臣である。自らの若いころの不甲斐なさを二人は熟知している。できれば、目の前から消えて欲しい。自分の同世代の幕閣を登用したい。しかし大御所の目が光っている。そこからの二人の対応が違うのである。
 正信は二代目をおだてながら仕える。息子の正純とともに、指図されたことはそつなくやってのける。武将型の忠隣は違う。若さまにも直言するタイプである。正信とその子から、「謀反の意思あり」と讒言が届けば、秀忠は、それを機会に忠隣切りにかかる。老い先短いことを自覚している父・家康も、「それはやりにくかろう」と忠隣を外す口実に利用した。
 先代創業者の番頭が二代目に仕えるのは、これほど難しい。今もそうである。心すべし。

 忠臣と謀臣の見極め

 家康は、関ヶ原に遅参した秀忠をなかなか許さなかった。しばらくは面会も拒絶した。廃嫡も考えた。関ヶ原直後に譜代の将たちと後継を評議したのも父としての苦悩の表れだ。
 秀忠の兄の結城秀康(ゆうき・ひでやす)や、関ヶ原で先陣を駆けた弟の松平忠吉を推す声が上がる中、忠隣は一貫して秀忠を推薦した。「それが筋であります」と。なんとしても秀忠を盛り立て徳川家に忠義を尽くすことに譜代としての生き甲斐を見出していた。
 忠隣は、七十代まで、彦根で蟄居したまま世を去る。晩年、彦根藩主の井伊直孝(いい・なおたか)は忠隣を不憫に思い提案した。
「罪なきことを将軍に陳述されてはどうでしょう。私もできる限りのことはいたしましょう」
 忠隣はこれを毅然と固辞した。
「それが通って私が許されたら、私を配流にした大御所様(家康)が判断を過まられたことなります。それはできません」
 家康も秀忠も、だれが忠臣でだれが謀臣かの判断を過ったのだ。

(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com

※参考文献
『二代将軍・徳川秀忠』河合敦著 幻冬社新書
『別冊歴史読本 御家騒動読本』新人物往来社

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