焼け野原を襲うハイパーインフレ
戦争の苦しみから抜け出した日本を襲ったのは、激しい物価の上昇、ハイパーインフレーションだった。米軍の空襲で焼け野が原となった国土で、工業生産力は灰燼に帰し、我慢を強いられた戦時統制経済から解放されて旺盛さを取り戻した需要にとても追いつかない。
物価が上がるのは当然だが、その上昇力は異常だった。敗戦の年、昭和20年(1945年)10月からから同24年4月までの3年6か月の間に消費者物価指数は約100倍となる。未曾有のインフレだ。
一方で、国民の生命線である主食・米の供給はというと、昭和20年こそ凶作であったが、翌年から戦前のほぼ平年作の収穫がありながら、米の価格上昇を見込んで、多くが闇市場に流れ政府は配給米にこと欠く有り様となった。
政府は産業復興の前提として、インフレ対策と配給米の確保が優先課題となる。
緊急金融措置令
敗戦から半年後の昭和21年2月、幣原喜重郎内閣は、「緊急金融措置令」を出してインフレ収拾に乗り出す。新日銀券を印刷し、出回り過ぎている旧紙幣を強制的に回収しようという政策だ。緊急措置令では、新円への切り替えに際して、新紙幣への交換は一人100円までと制限し、残りの旧紙幣は強制的に郵便局、金融機関に預金させ、引き出し額も制限した。事実上、国が国民の資産を吸い上げたことになる。
明治初期のインフレ対策として日銀が兌換紙幣を発行して、旧札を吸い上げ市中の紙幣流通を削減したのと同じ方策だ。しかし、その後もインフレが収束しなかったことは、先にあげた数字で明らかだ。日銀券の発行量は、確かに二週間で4分の1に激減し、政府はインフレを克服しつつあるとしたが、たちまち元の発行額に戻り、効果は薄かった。緊急措置が取られた昭和22年のインフレ率は125%に達した。
こうなればインフレ克服対策は一つ。産業復興を急ぎ物資の供給を増やすしかない。復興金融公庫から大量の資金が製鉄、炭鉱事業に投入され、これがまたインフレを加速させる。国民への生活保障は賃金の上昇で賄う。それがまた物価の上昇を招く。それを上回る賃金補填を労働組合が要求する。
これが長らく戦後日本経済の復興モデルとなった。
影の薄い日本銀行
この間、国の金融政策において中央銀行としての日銀の影は薄い。前回触れたように昭和17年(1942年)の日銀法制定によって、日銀は国の戦争遂行のための機関として規定されて、政府の完全な統制下に置かれた。戦後も引き続き、政府(大蔵省)の財政、金融政策の統制を受け続ける。日銀の目的が戦争遂行から、戦後復興の実現へと変わったに過ぎない。
占領下の昭和24年にG H Q(連合軍最高司令官総司令部)の民主化方針で、日銀法が一部改正されて、日銀に最高意思決定機関として政策委員会が設けられたが、実際の日銀政策決定は総裁に一任されていた。
戦後の産業復興計画は、優先産業にいかに効率的に資本を融資するかにあった。大蔵省が編み出したのは、メーンバンク制度だった。大蔵省―日銀―メーンバンクー企業、という一本のラインによって、日本の復興と高度成長政策は推進されていく。これは、アジアの発展途上国の「開発独裁型」経済モデルの手本となっていく。
しかし、やがて高度経済成長が終わる日本において見直しが迫られることになる。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考資料
『日本の歴史26 よみがえる日本』蠟山政道著 中公文庫






















