英傑の才を見抜いた男
中国の史書でいうと、『史記』と『三国志』の間の時代を描いた『後漢書』の時代は、人気がない。というか二つの名著の狭間にあって、あまり読む機会もない。しかし、范曄(はんよう)が編述したこの史書もなかなかに面白い。
時は、前漢の帝室を簒奪した王莽(おうもう)を光武帝が倒し、後漢王朝を建てたころ。光武帝の天下取りに付き従い殊勲をあげ続けた馬援(ばえん)という武将がいた。最初は謀反人の王莽に取り立てられたが、王莽が殺され混沌とする世情の中で隴西(ろうせい)地方の軍閥の親分の庇護下に引きこもった。天下の情勢は、漢王室を継いだとする光武帝と、蜀を拠点に帝王を名乗る公孫述(こうそんじゅつ)の勢力争いとなっていた。
そこで、馬援は、二人の皇帝候補と直接面談し、光武帝に英傑の才を見出したのだ。
本物の指導者は表面を飾ったりしない
馬援が寄宿した軍閥が陣取る隴西地方は、都の洛陽と蜀の地の間にあって、親分としては光武帝と公孫述のどちらにつくか、決断に迫られていた。親分は、馬援が公孫述と同郷で、顔見知りだと聞いて、「どんな男か見てきてくれ」と馬援に人物評価を託す。
「一杯やりながら、一晩語り明かそうか」と出かけた馬援だったが、蜀の都につくと、儀仗兵がずらりと並び、応接も型通りでまったく隙がない。
戻った馬援は、親分に報告する。
「天下の勝負も決まっていないのに、公孫述は、国士を迎えて相談しようという気がない。逆に表面の形式だけ飾り立て、飾り物の人形のようだ(辺幅を飾ること偶人のごとし)。井の中の蛙です。こんな男に天下の人材を引き止めるだけの器量はありません」
そこで親分は、馬援に親書を添えて洛陽に送った。まったく面識はなかったが、光武帝は、普段着のままで馬援を部屋に招き入れ、「あなたは二人の帝王の間を自由に歩き回っておられる、羨ましいことだ」と笑いながら言った。「陛下は私が刺客ではないかと警戒なさらないのですか」と問う馬援に「ばかなことをおっしゃるな、あなたは説客でしょう。さあ忌憚なく天下のことを話し明かそう」。これぞ帝王の資質であると感得した。