蒋介石が西安で張学良に拘束、監禁されたとの報が流れると、中国国内はもちろん、世界が大きな衝撃を受けた。
東アジアの巨大な獅子として君臨してきた清朝が滅んだあと混乱を続けてきた中国が、蒋介石率いる国民政府の手でようやく統一の展望がいま一歩のところまで開けてきていたからである。
残る統一の障害は、延安に籠る毛沢東の中国共産党とその紅軍だけだった。1万2500キロもの長征で疲弊した紅軍の兵力はわずか3万。対する国民政府軍の動員力は300万もある。張学良らが紅軍攻撃をためらうなら、蒋介石の中央軍の30万で包囲すれば、紅軍を西域の砂漠に追い落とせると蒋介石は考えていた。
しかし、実際の障害は中国内の国民世論だった。蒋介石の統一方針は、とりあえず日本軍とは事を構えず、満州国建国を黙認し、統一後に日本と対峙しようという、“先送り”論であった。ところが、統一が見えてきたからこそ、国民世論は、「日本追い出しが先だ」という抗日に大きく傾いてきた。
蒋介石は、日中共同で“反共”の共同戦線を組むのが早道だと戦略論から考えたが、世論の真のうねりが見えていなかった。
「各地で頻発する抗日のデモは、共産党が煽っている」と蒋は見ていたが、実際には反日の動きは延安まで届いていなかった。
時代の流れは蒋介石を押したが、世論の動きを的確に捉えていたのは、張学良だった。抗日か日中共同戦線か、蒋介石は勝利を焦り、最後の詰めを誤った。相撲、いやM&Aの最終局面で陥りがちな失策だ。勝負が決したかに見えた時こそ、土俵際の詰めは慎重に進めるべきなのだ。
西安城に監禁された蒋介石と張学良の力関係は逆転する。張学良は城の一室で上司である蒋介石を難詰した。
「国民政府は中国国民の総意を代表すべきである。国民政府を改組し、共産党と手を組み、協力して日本に宣戦布告せよ」
蒋介石は気丈に応酬した。「こんな不法な行為は許されんぞ。即時、私を釈放するか、それとも私を殺すか、さあ、どっちだ!」
張学良は、南京の国民政府と延安の共産党の元に事態を緊急打電する。
「蒋委員長に路線の変更を諫言中である」
膠着した状況を見て、延安では、共産党ナンバー2の周恩来を西安に派遣することを決定した。 (この項、次回に続く)