「男系男子」は明治の国家像の反映
女性皇族には天皇の継承権がない。当然のように議論が展開される場合が多い。そりゃそうだろうと思う人も多いだろう。ではその常識の淵源はどこにあるかといえば、1889年(明治22年)に「男系男子」の皇位継承を明文化した旧皇室典範(明治典範)の規定にたどり着く。それ以前に、男系男子を明文化したものはなかった。
徳川幕府を武力クーデターで打ち倒した明治維新政府は、国家統治システムの中心に天皇家(天皇)の権威を据えることで、自らの政権の正統性を図ろうとした。前回見たように、明治典範制定時に、いったんは欧州の王室の例にならって「直系の男子継承者不在の場合は女帝容認」論に傾きながら、男系男子論が巻き返した背景は二つある。
一つは、幕末の軍事クーデターを担い、明治政府の統治システムづくりに関与したのが武士勢力であったからだ。自分たちが否定した徳川政権下において武家は、将軍家を含めて男系男子が世襲することが厳格に定められていて、彼らにはこの価値観が染みついていた。男子の後継者がいなければ、「お家断絶」に直面する。跡を継ぐ男子の長子がいない場合に他家から養子を取ることは認められていた。しかし、商家に見られるような、先代の未亡人や娘が緊急避難的に「御寮人」(ごりょうにん)として家政を取り仕切り「のれんを守る」という、柔軟な発想はあり得なかった。
もう一つの理由は、富国強兵を図る立場から、天皇に軍の統帥権を与える必要があった。女帝ではまずかったのだ。
つまり、明治典範に、男系男子の皇位継承を書き込んだのは、明治時代の、というか維新革命を担った侍たちの新国家像の反映でしかない。それは新しい国家観でありながら、古い武家の家族観の域を出ないものだった。
敗戦後もこの家族観をそのまま引き継いだ現行典範にこの明治精神が反映され、女性天皇、女系天皇は排除されたままなのだ。男女同権がうたわれる新憲法のもとで、「男系男子」にこだわる保守派の主張に国民の大半が違和感を持つ原因はここにある。
わが国の女帝の歴史
天皇家は、古代より「万世一系」で世襲されてきたとされる。親から子へ、子から孫へと男子の系統で世襲されてきたということだ。では、女性天皇が一切排除されてきたのかというと、男系女子が女性天皇として即位した例が、10代8人存在する(うち二人は2度即位)。
江戸時代の後桜町(ごさくらまち)天皇(117代)を除けば、6世紀末から8世紀の飛鳥、奈良時代に集中している。
具体的に名前を挙げておくと、▽33代・推古(すいこ)▽35代・皇極(こうぎょく)=37代斉明(さいめい)▽41代・持統(じとう)▽43代元明(げんめい)▽44代・元正(げんしょう)▽46代・孝謙(こうけん)=48代・称徳(しょうとく)。そして先にあげた後桜町の8人だ。
注目すべきは、8人ともに、天皇の子、あるいは孫であり、「男系女子」である。古代に相次いだこうした女帝即位の風習は、後継争いが予想される場合や政治的葛藤を避けるために、いったん、天皇の血を引く男系女子に天皇位を譲って時間を稼ぎ、政治的安定を図る目的だった。女性天皇の後は、男系男子に世襲系譜は戻されている。
どうやって後継候補を確保するか
こうして「万世一系の天皇家」は守られてきたというのが、男系男子にこだわる保守派の主張の根拠だ。この原則にこだわるかぎり、一代限りの女性天皇を認めても、男系男子に事欠かなかった古代のような時間稼ぎにはならないと考えているようだ。
そこで、今回の皇室典範の改正となる。皇室の女性に婚姻後も皇族として残ってもらい、戦後に連合国軍総司令部(GHQ)の圧力で皇族の地位を離れざるを得なかった旧11官家の未婚男子を現の皇族の養子に迎えて、その養子のもとに生まれる男子に皇位継承資格を与えようという趣旨だ。お分かりになっただろうか。
ここまでの説明が政府から国民に十分になされているとは思えない。ただ結論ありきで典範改正作業は進められた。
典範改正で、皇族男子の数が将来的に確保されたと仮定しても、現在の天皇から数えて血統的に何親等も遠く離れた皇族に、国民は現在のような親しみと敬意を覚えるのだろうか。(この項は次回に続く)
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考資料
『女帝の古代王権史 』美江明子著 ちくま新書
『女帝の日本史』原武史著 NHK出版新書



















