- ホーム
- 指導者たる者かくあるべし
- 挑戦の決断(20) 大情況を読めない奇妙な名将(上杉謙信)
川中島の戦い
越後の上杉謙信と甲州の武田信玄は、北信濃の川中島で五度にわたって干戈(かんか)を交えた。中でも1561年(永禄4年)9月の四度目の対戦は、敵本陣に単騎切り込む謙信、軍扇で切っ先を受け止め振り払う信玄の図が講談、ドラマで取り上げられる名場面である。そのシーンを裏付ける資料はないが、フィクションを剥ぎ取って残された資料で再現するとこんなことになる。
信州制圧を目指し北信濃に着々と地歩を築きつつあった信玄は、現在の長野市の南方に広がる善光寺平の山際に海津城を築き、北に隣接する越後の謙信に睨みを効かした。この地域は領有権をめぐる紛争地域であったから、謙信も見逃すわけにいかない。直ちに1万3千の兵を率いて出陣し、約2キロ南の妻女山(さいじょざん)に布陣した。
信玄も程なく1万7千の兵馬とともに甲府を出立し現地兵3千と合流し海津城に入る。謙信は北方の善光寺に3千の兵を分置していたから、信玄も下手に合戦を仕掛けると挟撃される恐れがあり動かない。にらみ合いは二週間に及ぶ。
先に動いたのは信玄。別働隊に1万2千の主力を預け夜陰に乗じて妻女山の裏手に回らせて奇襲攻撃を計画する。謙信軍を平原につつき出して、本隊との間で挟み撃ちにしようという作戦。それに気づいた謙信は夜明け前に、密かに陣をはらい、千曲川と犀川(さいかわ)との間の川中島に出た。兵糧も尽きかけた謙信は川中島を突っ切って北方への退却を試みたと見られる。
しかしこの朝の現地は濃霧が立ち込めていた。鶴翼の陣で奇襲から逃げる敵に包囲戦を挑もうとしていた信玄軍だったが、霧が晴れると目の前に1万の敵、両軍あわてて予想外の白兵戦が展開することになる。
武田方の『甲陽軍鑑』によると、双方の死傷者は謙信側が9,400、信玄側が17,000とあるが、これでは両軍が壊滅状態となる。誇張であろうが、思わぬ遭遇戦でどちらも慌てたことは見て取れる。信玄の弟の信繁も討ち死にしている。
謙信にしてみれば、退却戦の失敗、信玄は越後軍を追い払えばよしとした作戦に手こずったことになる。これが第四次川中島合戦の真相であろう。ドラマは後世の講釈師による脚色である。
二正面作戦の愚
結果的には、信玄は新領地の北信濃を守り抜いたことになり、戦略的勝利であるが、問題は、謙信が、ここまで執拗に信濃にこだわる必要があったかということである。謙信の恐怖心は、居城の春日山から信越国境はわずか60キロの距離で、上州経由で関東攻略に全力を挙げている間に背後を信玄に突かれることにあったかもしれない。
しかし、信玄のこの時点での戦略は明確である。前年に駿河の今川義元が桶狭間の合戦で織田信長に奇襲されて敗死している。信玄の領土拡張のターゲットは駿河、三河進出にある。さらに信濃を安定的に領有できれば、美濃を経て尾張、京へ至る道も確保できる。多大の犠牲を覚悟してまで越後へ進出するビジョンはない。
謙信にしても、信濃を領有している余裕はない。それよりも悲願であった関東管領の復権を目指し、小田原の後北条氏を追い落とし、関東の覇権確立に専念すれば、拠点の日本海岸から太平洋まで領有する関東の雄として、天下に近づくことができた。
その戦略眼に立てば、信濃に関して信玄と妥協することが正しい選択であった。広大な越後を東西に軍を移動させて、二正面作戦を展開するなど非効率この上ない。その大情況を見誤ったとしか思えない。なぜか?
建て前、筋論にとらわれる
三年後、謙信は信玄と川中島で5回目の合戦に及ぶ。その出陣に際して謙信は弥彦神社に信玄打倒の願文を捧げている。
〈武田晴信(信玄)は信濃の各地を領有していた諸士を追放し、また輝虎(謙信)の分国である西上州の統治を妨げ、川中島でも部下たちを数多く討死させた。この所存をもって晴信を退治するのは当然である〉
北信濃を追われた領主たちへの義理を果たし、前回の川中島での犠牲者の無念を晴らす。そうした筋論に縛られ続けた愚直さが人格者とされる謙信の限界であった。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『戦国時代』永原慶二著 講談社学術文庫
『勝つ武将 負ける武将』土門周平著 中経出版新人物文庫