若き日には音楽家を目指し、今は趣味でジャズの演奏をしている友人がいる。年末にアメリカへ出かけ、教会でボランティアのコンサートを開くのを楽しみに、忙しい日々を送っている。彼から聞いた話だが、プロではない演奏でも盛り上がった後、大きな拍手と共に、観客に回される帽子の中には、紙幣や小銭などのお金が入れられる。もちろん、演奏料に見合う金額ではないが、聴衆は自分の経済的事情に応じた金額を、たとえ僅かでも寄付するという。
誠に残念だが、日本で同じことをした場合、帽子が回っている間に人に紛れてその場を去る人が少なくないのは事実だ。そこで10円でも50円でも構わないのだが、隣の人が1,000円入れたら、日本人は気恥ずかしさを覚えると共に、「お金持ちが入れればいいんだ」との考えが頭をよぎる。我が身に当てはめて考えても、否定ができない。
「日本には寄付の文化が根付いていない」ことは、先日の「新型コロナウイルス」の流行でも明確になった。著名人が多額の寄付をすると、「ああいうことは資産家がすればいい」と考える。そこを百歩譲ってその通りだとしても、額の多寡はともかく、資産家の寄付が続かないのだ。
政治的にはあまりうまく行っているとは言えない隣国の韓国は、この事態に有名なスターたちが競うように寄付を出した。その手を日本にまで差し伸べてくれた時、受け取った自治体の首長は、住民から批判を浴びた。あまりにも哀しい現実である。
日本文学、比較文学の大家として知られる中西進氏のエッセイ集に、我々の精神構造を実に明快に説明してくれている文章があったので紹介しておこう。キリスト教国では、現実に身分差や経済格差はあるものの、「神」のもとでは誰もが平等、という教えで育つ。その上で、恵まれない人や、喜捨をすべき折には、自分の身の丈に合った金額を出す習慣が根付いている。
一方で、日本は時に天皇、荘園領主、将軍、藩主など、常に庶民の上には「お上」がおり、その指示を受けて何かの行動を起こすことに慣れて来た。この違いが、個人の自発的な行動に関係している、との内容だ。「なるほど」と膝を打つような説明だった。
社員にしてみれば、社長や経営者は常に「お上」である。意見が違っても、渋々ながら従わなくてはならない。その代わりに、自ら成すべきことを考えずに済む。この基本的な構造は、1,000年以上変わっていない。だから、「指示待ち族」などという言葉も生まれたのだろう。
しかし、明治維新の波を受け、考え方は西欧化し、「個」が尊重されるようになり、権利を主張できるようにもなった。同時に、意識無意識に関係なく、都合によって近代的な考えと、昔からの日本的思考を柔軟に使い分けるようにもなった。率直に言ってしまえば、自分に有利な場合は「個」の主張が大きくなり、不利な場合は、集団の中で「お上」の指示に従う。これは、なかなかに頭の痛い問題であり、上に立つものとしても悩ましいところだ。この柔軟性は、ともすれば狡く働く場合があり、よく言われるように「権利の主張はするが、義務は果たさない」ことに結び付くからだ。
我々庶民の感情の中には、「自分よりも上位の者に施してもらうのが当然」という感が少なからずある。その時に、自分よりも恵まれない人々に想いを致すことができるかどうか、この点を忘れている。いろいろな体験を経て、「当たり前の生活」がいかに貴重な、掛けがえのないものであるかを多くの人が感じた今こそ、日本に「寄付の文化」を根付かせるチャンスではないだろうか。かつて日本人の美徳とされた「謙虚さ」が「自己主張」に取って代わられた今、リーダーたちが新しい日本人の考え方を示すことが、今後の社会に与える影響は決して少なくはないはずだ。
「利益の社会還元」とはよく聞く言葉である一方、川の上流から還元した利益が、どこでどのように使われて、河口へたどり着くのか。その過程をキチンと知らせることも必要だろう。それを「お金持ちの自慢や自己満足」と受け取っているようでは、人間の器量が疑われる場合もある。「貧者の一燈」との言葉もあり、恵まれない境遇だからこそ、その痛みや辛さも分かり、金銭や物品だけではなく、行動で示していた時代は、何百年も前に終わった話ではない。
近代化に触れた明治維新以降、日本人の考えが大きく変わる転換点は何度もあった。しかし、外来の物と日本固有の物をうまく混ぜ合わせ、「日本流」を創り上げるのは、たぐいまれな日本人の才能の一つだ。トップ・リーダーの発想が、そうした形で生きることになれば、「日本は他者に対して冷淡な国」という汚名を返上することもできるのではないだろうか。
時代や物の考え方が変わろうとしている今、リーダー自らが「率先垂範」することで、次に続く世代へ「解答」ではなく「ヒント」を残すことはできるのだと考える。後は、いつ実行に移すか、だけだろう。