■戦国武将を癒やした湯
開湯から1200年近くの歴史を誇る下部温泉は、渓流に沿うように十数軒の宿が並ぶ中規模の温泉街だが、こぢんまりとした旅館がほとんどで、昔ながらの静かな湯治場の雰囲気を今も色濃く残している。
下部温泉は、山梨県周辺に点在する「信玄の隠し湯」のひとつとしても知られる。戦国武将の武田信玄は、戦で傷ついた将兵の治療や金山で働く人々の療養のために温泉をおおいに活用したといわれており、信玄自身も川中島の合戦で負った傷を下部温泉の湯で癒したという伝説も残る。
信玄が本当に浸かったかどうか真偽のほどはわからないが、信玄が温泉のもつパワーに注目し、大切に保護していたことはたしかだろう。信玄もよほどの温泉好きだったにちがいない。
信玄ゆかりの宿が、温泉街のなかでもっとも歴史の古い宿「古湯坊源泉館」。宿の隣に立つ熊野神社の赤い鳥居が目印だ。同宿には、信玄が許可証を発行し、温泉を大切に守ってきたという資料も残っている。
ちなみに、温泉地にある神社の多くは歴史が古く、温泉街の中心に鎮座しているケースが多い。神社は大地の気がよいところや、泉源(湯が湧き出すところ)近くに建てられるものなので、必然的に周囲には良質な源泉や老舗の名旅館が集まっている。だから、筆者が宿選びで迷ったときは、神社から近いところを選ぶようにしている。
■30℃の冷たい湯
名物の「かくし湯大岩風呂」は混浴である(女性専用時間17:00〜18:00)。かつては日帰り入浴も受け付けていたが、現在は宿泊者のみ利用できる。
ゆっくりと浴室につながる扉を開けると、目の前には上半身を隠さずに歩くお婆さん! いくら混浴になれているとはいえ、あまりに大胆なので少し困惑してしまった。おそるおそる浴室を見渡すと、数人の女性が入浴していたが、皆、母親よりも年上の方々ばかり。ちなみに、湯船でもタオルを巻いて入浴できる。
15畳ほどの大きさを誇る岩風呂に足をつける。つ、つ、冷たい……。思わず足をひっこめる。実は、29~31℃しかない冷泉なのだ。
30℃と聞いても、そんなに冷たいイメージはないかもしれないが、体温より泉温が低いと、とても冷たく感じるもので、温泉というよりも水に浸かるような感覚である。
普通の温泉施設では加温して適温にすることが多いが、源泉をそのままかけ流しにしているところに、かえって好感がもてる。
■じわりじわり温まる
そろりそろりと体を沈めていく。最初こそ多少の辛抱が必要だが、泉温になれてしまえば清涼感が気持ちいい。冷たい湯は心が洗われるようで、思考もクリアになる。特に暑い季節にはもってこいだ。
時間がたつにつれて、体の芯までじわじわと温まっていくのがわかる。これが単なる水ではなく、温泉である証拠だ。
透明度の高いピュアな湯は、湯船下の大岩盤から直接湧き出している。つまり、自然湧出している泉源の上に湯船がつくられた「足元湧出泉」なのだ。しかも、毎分415リットルの湯がたえず湧き出しているのだから、湯の新鮮度はピカイチである。
1時間ほど冷泉の布団に包まれていたら、ついうとうとしてしまった。温泉に浸かりながら睡魔に襲われたのは、このときが生まれて初めての経験だった。ぬるい湯では副交感神経が優位になり、精神的にもリラックスできる。
激しい戦に明け暮れた信玄や武士たちも、この冷泉に浸かって、ほっと一息つき、明日を生き抜くパワーを充電したのだろうか。
その晩ぐっすりと眠れたのは、温泉の効果だろう。生きるパワーをチャージするには最高の冷泉である。