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人間学・古典

第68回 先人の教え⑤ 森光子

令和時代の「社長の人間力の磨き方」

 作家・林芙美子(1903~1951)が世に出るまでの半生を描いた自伝的小説『放浪記』。それを舞台化し、生涯に2,017回演じた森光子。最期の公演で2,000回を迎えたのは、89歳の誕生日だった。

 この芝居のことはよくマスコミでも取り上げたので、観てはいなくてもご承知の方も多いだろう。テレビでは『時間ですよ』などの人気ドラマ、ザ・ドリフターズのバラエティ、午後のワイドショー『3時のあなた』などの司会をしながら、実に半世紀近くを掛けての記録達成である。もちろん、記録の達成を目的にしていたわけではない。次に演じる機会があれば、今回の舞台で満足の行かなかった部分を直し、より充実した舞台にしたい、との試行錯誤の繰り返しの結果、積み重ねられた数字だ。

 回数の問題で言えば、歌舞伎役者の二代目松本白鸚は、歌舞伎の『勧進帳』、ミュージカルの『ラ・マンチャの男』をそれぞれ1,200回以上演じるという偉業を達成している。

 ここで勘違いしてはいけないのは、いくら人気や実力がある役者でも、自分が「やりたい」だけではやれない、ということだ。「素晴らしかったのでもう一度観たい」と観客が思わなければ、どんなベテランでも次はない。日本では俳優は「芸術家」ではなく、消耗品である。興行会社とて文化事業よりも損得勘定が大事なのは企業として当然で、「お客さんが来て、儲かるのかどうか」に帰結する。

 それを納得させて、観客を納得させ続けてきたからこそ、回数が積み重なっているのだ。演劇は、演出である程度の変更は可能でも、大幅な改変はできない。となると、回を重ねるごとに、自分の演じる役が人間としての厚みや深み、時には生々しさをより感じさせるように役を掘り下げるしか方法はないのだ。

 

* * * 

 

 森さんとは、晩年の10数年、特に近しくしていいただき、多くのことを教わった。「森さん」と馴れ馴れしく書いたが、誰にも絶対に「先生」とは呼ばせなかった。

 マスコミでもよく報道されていたが、若くしなやかな肉体を保つための日々のトレーニングのストイックさだけでも、到底真似のできる話ではない。念に3,4回、食事をしながら数人で芝居の話に興じるごく内輪の会があった。私は最年少だったが、席はいつも森さんの正面と決まっていた。これは贔屓をされたという自慢話ではない。肉、魚、卵、野菜、揚げ物など、幅広くまんべんなく召し上がるが、そう量はいけない。私とシェアして、私が同じ品物を、森さんの倍ほど食べていたのだ。言わば、森さんの胃袋の「代役」だ。

 お酒は召し上がらなかったが、周りのメンバーが酔い、座がほぐれると、ユーモアたっぷりの芸談が飛び出した。それが私には宝石のように輝く話であったり、唸るようなことであったりと、どれほどの勉強になったことだろう。

 例えば、冒頭で例に挙げた『放浪記』だが、何回目であろうが演じることが決まると、最初からの自分のセリフを細かなメモに全部書き、それから工夫をしながら覚えるのだ、という。物事に「慣れる」のは良いが、「狎れる」のはいけないという見本のような実例だ。

 『放浪記』では劇中で林芙美子が自分のお小説が入選したことを知った木賃宿で喜び、「でんぐり返し」をする場面が見せ場の一つだった。しかし、80代半ば、演出家が変わったのと共に、この場面の表現が「でんぐり返し」から「万歳」に変わった。マスコミは「森光子、衰えたり」と書き立てた。確かに、80代後半で毎日、かつらを掛けた頭で「でんぐり返し」をするのは容易なことではなく、負担が増すのは事実だ。しかし、肉体的な条件よりも重要な理由があった。

 「80何歳ででんぐり返し」と、この場面ばかりに注目されたくないこと、この表現を変えることで、林芙美子のもっと深い部分を表現したいとの想いからの演出の変更だった。派手に見え、大向こう受けをする行為を辞めて、その代わりに全編で人間の細かな感情の襞をより鮮明に表現する方が苦しい選択であったはずだ。しかし、自分の芸の「進化」あるいは「深化」のために、その行動を選択できるのは、一流の証だろう。

 

* * * 

 

 森さんが売れたのは40代になってからだ。それまでの恵まれない時代、売れてからの時代に、自分を厳しく律しないで周りの甘い言葉だけを信じてダメになった例を、嫌というほど眼にした経験である。その結果、自分がどうすべきかを考えられる人は少なくないだろう。しかし、実際に行い、なおかつ続けることができる人がどれほどいるだろうか。

 森さんがFAX魔であったのは有名な話だ。我が家にも、宝物のようにやり取りしたFAXが保存してある。最後にいただいたFAXは、「いつまでも、家族のような仲間でいてくださいね」と結んであった。

 女優として2人目の文化勲章受章という頂点に立った代わりに、遠慮なく自分の言いたいことを言い、時にはからかわれる仲間をそうは持てなくなってしまった孤独の影が滲む言葉だ。芸の道を歩む人間の孤独さは、多くのジャンルに共通することかもしれない。その遥か後ろを、60を過ぎて必死で追い駆けようとしている自分がいる。私にはどこまで走ることができるのだろうか。まだ、森さんとの距離は縮まっていない。

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