信じて人を使う
紀元前7世紀、春秋戦国時代の混乱期にあった中国で、魯(ろ)の国は荘公(そうこう)が治めていた。東に接する大国の斉(せい)は桓公(かんこう)の治世で、名宰相の管仲(かんちゅう)を得て諸侯を束ねる覇者への道を突き進んでいた。
小国の魯は常に斉の軍事的脅威に圧迫されている。荘公は胆力のある人材の確保こそ国を守る力と信じていた。「荘公は勇力を好んだ」と司馬遷の『史記』は記している。魯は保守的な国で、人事においては家柄と礼節が第一に重んじられてきたが、荘公は家柄を問わず実力重視で人事を行なった。特に軍事に関しては豪胆さを求めた。保守的風土の中で改革的志向を持っている。
その荘公のもとへ、人を介して一人の男が仕官を願い出てきた、曹沬(そう・かい)である。名門の出ではないが、荘公は、一目でその剛勇さを見抜き、曹沬を将軍に抜擢する。
まもなく、大国の斉が魯に攻め込んできた。曹沬は奮戦したが、三度戦って三度敗北した。荘公は斉を恐れて領土の一部を割譲して和睦を決断する。しかし、曹沬をそのまま将軍の職にとどめた。三たび破れたとはいえ戦いは時の運。自ら見込んだ彼の才を生かす道はまだあると見たのだ。
豪胆さで君主に報いる
前681年、桓公と荘公は和睦の会談に臨む。壇上で領土割譲の条件で和睦の誓約書を交わしたその時、曹沬は突如壇上に駆け上がり、匕首(あいくち)を桓公に突きつけた。公の側近たちも動きが取れない。
桓公「お前の望みはなんじゃ」
曹沬「斉は強く、魯は弱い。だから斉は魯を侵略するのですが、いささか度を過ぎております。いまや斉の国境は深く魯に入り込み、国都に迫っています。あなたは考え直すべきです」
桓公は、それを受け入れてこれまでに侵略した土地をすべて魯に返還することを約束した。それを聞くと曹沬は匕首を投げ捨て、何ごともなかったかのように臣下の席に戻って居住まいを正した。
史記は荘公の言動を何も伝えていないが、曹沬は、三度の敗北にもかかわらず、信頼を持ち続けてくれた君主に、大胆な行動で応えた。君主としてある種の満足感があったはずだ。
外交場面での無礼な振る舞いは決して褒められたことではないが、信頼と報恩のこのエピソードは、史記・刺客列伝の筆頭に記録されている。
この話には続きがある。脅されて領土返還を約束したものの事態がお落ち着いてみれば桓公の怒りはいや増した。「今の約束は無効だ」と激昂する桓公を諌めた男がいる。斉の宰相の管仲(かん・ちゅう)だ。
「それはいけません。そもそも小利(隣国の小さな土地)を貪っていい気でいるようでは、諸侯の信頼をなくし天下の助けを失うでしょう。約束通りに土地を返されるのがいいでしょう」。大局を見よ、と言うことだ。
こうして魯が失った土地は戻った。そして、管仲のアドバイスに従った桓公はやがて諸侯の信頼を得て、中原の各国を束ねる覇者となる。
泣いて馬謖を斬った過ち
管仲は、主君のために目の前で立ち上がった敵将に自らを重ね合わせただろう。斉に仕官したあと、三度戦いに敗れている。太子時代の桓公に弓を引いたこともある。一時は魯国に亡命した過去も赦されて宰相に抜擢された。であればこそ、短気な桓公を支えて斉のために粉骨砕身している我が身を思った。赦され、信頼され、報いることが天下を動かす大きな力となることを確信したはずだ。
そして話は、前回の馬謖(ば・しょく)に戻る。蜀の宰相・諸葛亮の第一回の北伐に置いて、街亭の戦いでの一度の作戦ミスを犯した馬謖は処刑された。諸葛亮は、先帝の劉備から、「馬謖は口先だけだ。重用するな」と遺言で聞かされていながら、自ら厚く信用し、政治参謀としてそばに置き、また、街亭の戦いの指揮を任せた。
馬謖処刑にあたって、諸葛亮は泣いたという。綱紀のために泣く泣く功臣を処分したということなのだろうが、そんな上司の元で命を捧げる部下などいるだろうか。
私なら、そんな上司はまっぴら御免被りたい。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『世界文学大系 史記★、★★』司馬遷著 小竹文夫、小竹武夫訳 筑摩書房
『正史三国志5 蜀書』 井波律子訳 ちくま学芸文庫