淵源は経済構造の南北差
18世紀後半に英国から独立したアメリカ合衆国は、旧植民諸州の連合体としての緩やかな連邦国家だったが、建国後100年を経ないうちに分裂の危機に陥る。南部諸州が合衆国から離脱して北部と争った南北戦争(1861〜65年)だ。
一般に、奴隷制を維持したい南部と、奴隷制廃止に動く北部との対立として説明されるが、根本的な対立は、南北間の経済構造の差から生まれていた。工業化が進展する北部諸州は、独立戦争の最終段階としての米英戦争(1812〜14年)の過程で英国の締め付けによって英国からの工業製品の輸入が途絶え、逆に工業生産が急速に進展する。工業化には、工場労働者の流動性が重要で、移動の自由のない奴隷制は馴染まない。
一方で、南部は、農業生産に大きく依存しており、とくに技術革新によって綿花栽培が急成長して、1850年代には世界の綿花栽培の四分の三を占めるまでに発展していた。欧州の戦争に忙殺されるナポレオンのフランスから購入したルイジアナや、メキシコから割譲されたテキサスやニューメキシコなどでは、大規模な農園(プランテーション)は黒人奴隷の安価な労働力に依存して経営されている。
州と連邦はどちらが上位か
こうした南北の経済基盤の違いは、関税をめぐっても先鋭化する。北部では、欧州からの工業製品の流入を阻止するために高い関税の保護貿易主義を志向したが、南部では、綿花など農産物の輸出に有利なように関税を低く抑える自由貿易体制を望む。
関税の設定は連邦(合衆国)政府に委ねられていたから、連邦の主導権を南部と北部のどちらが握るかが政治の焦点となってくる。南北の州の数が拮抗しているうちはいいが、国土開発が、中部から西部へと拡大しいく過程で、北部の影響力の強い州が上回るようになり、均衡が崩れる。(南北戦争勃発時は、北部23州に対して、南部11州)
南部州は、連邦政府の権限は憲法上どこまであるのか、州の自主権を認めよと、建国の理念についての論争を挑み、さまざまな訴訟で争うが、連邦最高裁は、合衆国の決定が優先されるとの判決を重ね、連邦の上位を跡付けていく。
危機感を持った南部11州が合衆国(連邦)を離脱して、南部連合国を結成し、合衆国政府に軍事挑戦したのが、独立後最大の内戦である南北戦争だ。
黒人奴隷は解放されたが
開戦時点での人口比は、北部2200万、南部900万(うち奴隷400万)で北部が圧倒していた。
四年続いた内戦は、南北双方で50万人近くの戦死傷者を出し、ご存じのとおり激戦の末に、共和党のエイブラハム・リンカーン大統領が率いる北軍の勝利に終わる。南部諸州は軍事占領されて、奴隷制は崩壊する。南部の経済も労働力を失い瓦解する。
歴史書は、北部は奴隷制廃止を掲げる「自由州」と表記し、南部を「奴隷州」と表記するが、それは勝者による名付けであって、奴隷問題は、戦いの一面でしかなかった。リンカーンも開戦前年の大統領選挙では、奴隷制の拡大に反対の態度を表明していたが、奴隷は個人の私有財産であることを認めていた。全米で、黒人の法的な人権が確認されるのは、それから1世紀を経た1950年代以降の公民権運動を待たねばならなかった。
南部の挑戦は潰えて、アメリカは、連邦政府の権限が格段に強化された。この後、広大な国土を開発していく主役は、世界各地から押し寄せる移民たちだった。移民の国に変貌してゆく。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
(参考資料)
『南北戦争の時代 アメリカ合衆国史②』貴堂嘉之著 岩波新書
『アメリカ革命 独立戦争から憲法制定』上村剛著 中公新書