時代遅れの日銀法
戦時中の昭和17年(1942年)に成立した日本銀行法(日銀法)では、日銀は戦争遂行のための戦時経済遂行機関として位置付けられ政府の管理下に置かれた。戦後も日銀法の大枠は変わらず、政府の監督のもとで戦後復興のための金融政策を担い続ける。
前回はここまで見てきた。しかし、やがて日本を取り巻く国内外の金融情勢は、大きな変容を見せる。1971年のニクソン・ショックを受けて、日本も73年から、変動相場制に移行する。80年代後半のバブル景気とその崩壊は、金融政策は微妙な舵取りが必要となった。90年代に入ると、低成長時代に突入して企業の資金需要は減退し、従来の「行け行けどんどん」型の金融政策は行き詰まりを見せる。
さらに海外から金融自由化の荒波が押し寄せ、各国とも中央銀行の独立性強化の動きを加速させるようになる。政治は元来、国民に不人気な緊縮政策を避けたがる。金融政策を担う中央銀行には、インフラ懸念がありながら通貨をどんどん発行せよとの政治的圧力がかかりやすい。しかし、低成長期に入ると、インフレ政策は、各国の通貨価値の下落を招き、金融政策全体が機能不全を起こす。そこで各国ともに中央銀行の金融政策を政治のエゴから守る動きが進んだ。それが中央銀行の独立性の確保だ。
日本はこの動きから遅れた。97年に米国の格付け会社が行った各国の中央銀行独立性評価ランキングで、日本は、先進7か国中、最も低い評価を受けた。「日本の金融政策は大蔵省(当時)が牛耳っている」と評された。
金融政策の独立性と透明性を目指して
平成10年(1998年)4月、国際的な金融ビッグバンという外圧の中で、日銀法は大改正を行なった。「日銀の115年の歴史の中で最大の出来事」と当時の総裁・松下康雄は会見で語っている。
日銀法改正の理念は、「独立性」と「透明性」の確保にある。独立性とは、金融政策の運営を、日銀の中立的で専門的な判断に任せることだ。同法三条には、「日本銀行の通貨及び金融の調節における自主性は尊重されなければならない」と明記されている。
透明性とは、金融政策の決定内容や決定過程を、国民、マーケットに明示すること。実際には、定期的に開かれる金融政策決定会合については、議事要旨を作成し速やかな公開を義務付けた。詳細な議事録は10年後に公開する。
また、金融政策の理念については、第二条で、「物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に寄与すること」と明示された。かつての「戦争遂行」や、「戦後復興」などの政治目標から脱却し、「物価安定」目標をうたっていることは重要だ。やみくもな発展目標に前提、歯止めをかけている。まず、物価安定なのだ。
日銀と政府の協調
とはいうものの、日銀の金融政策と政府の財政政策は経済を動かす車の両輪であることは間違いない。両者がうまく協調しなければ動かない。人事面を含めて政府の監督権限から自由になった日銀だが、金利政策などで真の独立性を発揮できているのか。
協調の名の下の強烈な政治圧力が取り沙汰される安倍晋三政権下の「異次元緩和」政策で見てみる。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考資料
新日本銀行法の概要(日本銀行ホームページから)























