「空冷エンジンにこだわるかぎり、ホンダに将来はない」という若い技術者たちの直訴に、副社長の藤沢武夫は社長・本田宗一郎の説得を決断した。
しかし、本田にも技術者としてのプライドがある。引くための口実が必要だった。
おりしも、米国ではマスキー法案が審議され(1970年成立)、各国の自動車メーカーに厳しい排ガス規制の遵守を求めようとしていた。技術陣の判断は「低公害エンジン開発は水冷エンジンが有利」だった。
「これだな」と、藤沢は説得のキーワードを見つけた。
藤沢は本田と対座する。そして切り出した。
「低公害エンジンの開発がホンダの四輪業界への進出のまたとないチャンスとなる。水冷エンジンの開発を認めてもらえないか」
本田は予想通り抵抗した。「空冷だって低公害化はできる。おれに任せろ」
確かに、技術は本田、経営は藤沢の役割分担は会社発足からの約束だった。
「これ以上は言いません。ただ一つだけお聞きしたいことがあります」と藤沢。
「本田さん、あんたはホンダの社長としての道をとられるのか、それとも技術者としてホンダにいるべきだと思われるのか。そろそろはっきりさせるべきだと考えるんだが…」
熟考する本田。しばらくあって沈黙を破る。
「おれは社長として残るべきだろうな」
この日から、本田は技術研究所から事実上、手を引き、本社で経営の指揮をとるようになる。
若い技術者たちは、最先端の水冷低公害エンジンの開発にしゃにむに取り組む。そしてホンダ初の本格的水冷エンジンを積んだ軽乗用車ライフに結実し、やがてマスキー法の基準をクリアし世界を驚かせるCVCCエンジンにつながった。会社は名実ともに世界のホンダへと駆け上る。
四人の専務による集団指導体制も軌道に乗っていた。藤沢は、これでホンダを次世代に引き継げると考えた。本田も同じ思いだった。
1973年、二人三脚で支えた創業25年を前に、二人は社長、副社長の同時引退を決断する。
「まあまあだな」と本田。
「そう、まあまあさ」と藤沢が応じる。
「ここらでいいということにするか」
「そうしましょう」
「幸せだったな」
「本当に幸福でした。心からお礼をいいます」
「おれも礼をいうよ、良い人生だったな」
本田宗一郎66歳、藤沢武夫62歳。見事な引き際だった