外交は交渉力で決まる。100%の勝利を願うものは敗れ去る。「交渉は51%の勝ちで良しとせよ」とは、古来の格言である。
自ら勝つと同時に相手にも「負けた」と悟らせない。ビジネスにおいても同じこと。歴史の重要局面には見事なネゴシエーターが登場し時代の舞台を動かしてきた。その知恵に学ぶ。
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慶応4年(1868年)正月11日、薩長軍を相手に鳥羽伏見の戦いによもやの敗戦を喫した将軍・徳川慶喜は大坂を逃れ、軍艦開陽丸に乗りほうほうの体で江戸に戻った。
江戸の浜御殿に到着するなり慶喜は、「勝海舟を呼べ」と命じた。将軍を前に意気消沈して居並ぶ幕閣に向かって勝は、「あなた方なんということだ。これだから私が言わない事じゃあない。どうなさるおつもりか」と吠えた。
背景がある。幕末の混乱期、勝は徳川家追放を叫ぶ薩摩・長州に対抗するため土佐藩と連絡を取り合いながら、「大政奉還」にこぎつけた。将軍家として朝廷から預かった形の国政をいったん朝廷に戻し、徳川家を盟主とする諸大名の合議体に国のシステムを円滑に移そうという試みであった。
しかし、西郷隆盛ら勤王派は、一気に徳川家を政治場面から消そうと「王政復古」のクーデターに突き進んだ。徳川家を排除し天皇親政を目指すもので、勝にすれば西郷らに先手を打たれたことになる。
この動きの中で軍艦奉行職だった勝は憤慨して江戸に戻り、事実上公職をはずれていた。王政復古とはいえ、軍事、経済的に最強の大名である徳川家を無視できるわけがない。いよいよ政治力が問われる局面で、幕府側は鳥羽伏見で軍事力による巻き返しを図り失敗した。薩長側は、朝廷に楯突いた幕府に賊軍の汚名を着せ、一気に江戸に攻め上ろうとしていた。幕府は薩長の狙い通りに、はめられたのである。
「どいつもこいつも…」。勝は、幕閣にも薩長にも腸が煮えくり返る思いだった。
慶喜から陸軍総裁に任命され幕府軍の全権を委任された勝は、強い思いがあった。
「このまま内輪争いを続けていたんじゃインド、中国の二の舞いではないか。この国は欧米列強の介入を招き植民地となっちまう」
国を存亡の危機から救うためには、「相手は彼しかいないな」。信頼に足る交渉相手として西郷隆盛を見据えていた。
だれと交渉するか。その選定がネゴシエーターの最初の仕事である。
勝は長年の交友から、過たず相手を選び出した。 (この項、次回に続く)