旧幕府軍の陸軍総裁についた勝海舟は、前将軍の徳川慶喜のもとで事実上のトップの地位についたが、まずやるべきことは“新政府”との間で妥協の道を探ることだった。
王政復古のクーデターを成功させて鳥羽伏見の戦いに幕府軍を破った新政府軍は、天皇・朝廷の権威を後ろ盾に錦の御旗を掲げて江戸に向かっていた。
新政府軍の中核である薩摩と長州、とりわけ長州藩士たちは、一時は朝敵とされ長州征伐の軍を起こした幕府に対して恨み骨髄であった。江戸城を包囲、一戦を交えて徳川家を葬り去ろうと血気にはやっている。
幕臣としての勝は当然、徳川家の温存を図らねばならないが、それより無益な内戦は何としても避けねばならないと考えていた。
勝はまず慶喜に朝廷への恭順を説得する。幕閣、幕臣の中では徹底抗戦論も根強かった。幕府に軍事顧問団を送り込み新政府に否定的なフランスは、ロッシュ公使が箱根山での新政府軍迎え撃ちを主張していた。それまで幕府との間で約束を取り付けていた、ぼう大な利権を守るためであった。
勝の考えは違った。新政府軍が江戸を目指しているのは多分に私憤によるもので、彼らが目指すのは私戦である。ここで幕府が「私」を捨て、新しい政体をともに目指す「公」の立場に立つことで、交渉を有利に進めることができると考えていた。
このため勝は「私」に動くフランスを見限った。新政府側に影響力を持つイギリスの外交力を利用する。英国の外交官、アーネスト・サトウを秘かに邸に呼び入れ、幕府軍として戦う意志のないことを伝えた。
イギリスは動いた。勝の誠意を通じて幕府の「公」の信義を信頼したのだ。
イギリス公使のパークスは新政府側をなじった。「恭順の意を示すものに戦端を開くならば、諸外国は決してそれを見過ごさないだろう」。
顧問格のイギリスの批判に衝撃を受けた新政府の中で、西郷隆盛はこうした動きをじっと黙考していた。「公」と「私」という勝の考えに、儒教倫理に通暁する西郷の心は反応したのである。勝の発したメッセージは、国の内外を越え当時の一流教養人の“共通語”だったのである。
「勝の話をじっくりと聞いてみたいものだ」
新政府軍は江戸へ迫っていた。3月6日、新政府は、15日を期して江戸城総攻撃を行うことを決した。時間は残されていなかった。 (この項、次回に続く)