誤った男の美学
♫義理と人情を秤にかけりゃ
義理が重たい男の世界
ご存知高倉健が歌う映画『唐獅子牡丹』の主題歌だ。
「あいつは義理堅いやつだ」「死を賭けて義理を返す」という表現からうかがえるように、「義理」は、日本人にとっては、任侠社会でなくても評価される男の美学の真髄だ。
しかしどうやら「義理」は西欧にもお隣の中国にも見当たらない日本独特の概念のようだ。英語にも適当な訳語がない。
「菊と刀」の重大指摘
米国の文化人類学者、ルース・ベネディクトは、1946年に発刊した日本文化の特質に関する著書『菊と刀』の中で、この特異な概念に着目し一項目を立てて分析している。同書は、先の日米大戦中、米国政府がベネディクトに命じて、敵国日本の文化背景と行動パターンを分析させた報告書に基づいたものだ。戦中の米国の余裕に感心するが、それはさておき。
「義理を返す」という言葉に現れているように、義理は何かの「施し」への返礼、負い目と関係する。施しとは、上に立つものからの恩恵である。欧米人は、組織、社会の中の自らの立場によって負う「義務」を重視するが、義理は、義務とは異なるものだ。
ベネディクトは、「それは日本独特の範疇(概念)であって、『義理』を考慮に入れなければ、日本人の行動方針を理解することは不可能である」とまで指摘している。
ルール、規範無視の根源
人事、昇進に関する上司の配慮、不祥事もみ消しで世話になった恩義など、上司―部下の関係で生じる負債意識がそれだ。その負債を返すためには、ルール、規範を無視することも余儀なくされる。
広辞苑で「義理」を引くと四項目めにこうある。「特に江戸時代以降、人が他に対し、交際上のいろいろな関係から、いやでも務めなければならない行為やものごと」
ルール違反であることを知りながら、監督が悪質タックルを命じ、コーチを通じて選手が実行する。また、上司の国会答弁の嘘と辻褄をあわせるために、エリート官僚たちが、悪いことだと認識しながら部署ぐるみで文書を書き換え、あるいはなかったことにする。あるいは、組織トップの意に沿うように試合判定を覆す。製品検査データの改竄も同じ流れの中で繰り返される。
どれもこれも、当てはまるではないか。
「いやでも務めなければならない」行為を余儀なくされる。ばれさえしなければ、「よくやった」と褒められてきたのだ。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『菊と刀 日本文化の型』ルース・ベネディクト著 長谷川松治訳 講談社学術文庫
『適応の条件』中根千枝著 講談社現代新書