ペリー率いる米国黒船艦隊の来航と開国要求に対して、準備不足の幕府は、一年後の交渉を約束して、とりあえずは危機を脱した。
しかし翌年、安政元年(1854年)2月に再び江戸湾に黒船で姿を現したペリーの軍事力を背景にした強硬姿勢に、幕府は下田、函館の二港の開港、燃料の薪と水、食糧の提供、米国への最恵国待遇などを約束する日米和親条約を結ぶ。
ゆるい条約締結でペリーが立ち去り安堵した幕府だが、その後行われる通商条件を巡る交渉で日本外交はますます迷走する。
「攘夷」か「開国」かをめぐり国論が二分された幕末の政治劇で、老中首座・阿部正弘の「開国」判断は現実的かつ賢明なものであった。
むしろ、長州藩を中心に煽られた攘夷論は現実的ではない。この10年後に長州は欧米列強の四国艦隊を迎え撃った下関戦争で完敗している。
長州、それに薩摩も加わって燃え上がる攘夷論は、たとえて言えば、政権奪取のためなら「なんでも反対」を叫ぶ無責任野党の論である。外様として辛酸をなめてきた藩の私怨の色が濃い。幕府に、攘夷世論を背景にして不可能な「攘夷」実行を迫り、できない幕府は倒せという、まさしく無茶ぶりである。
どうして幕府は正論である「開国」で国論を統一し成功できなかったのか。
背景に、江戸幕藩体制の奇妙な権威と権力の二重構造がある。
京都に権威としての朝廷があり、天皇は国家統合の象徴であった。一方、現実の政治権力は完全に幕府、将軍の手中にある。
形の上で将軍(征夷大将軍)は天皇から任命されるが、幕末の権威=朝廷は、まったく権力から遠ざけられている。
オールジャパンで対処すべき国難にあたって、幕府の最大の失策は、権威としての朝廷を開国側に引きつけられなかったことにある。
一見、権力執行者に無用、邪魔者と映る権威=カリスマも、国難、社難に際して有用である。うまく利用したものが勝つ。そのために権威は存在する。企業執行部を支える創業者家のようなものだ。