- ホーム
- 指導者たる者かくあるべし
- 逆転の発想(31) 忠義よりも家門を守れ(真田昌幸)
同盟相手を自在に選ぶ外交戦略
信州上田城の領主、真田昌幸は若いころ、武田信玄の奥近習(親衛隊)の一員として名を馳せた。第四次の川中島の戦いでは信玄の陣に上杉謙信軍が雪崩れ込んだときに、身を挺して信玄を守った。
武田家が滅びたあとは、織田信長、北条氏直、徳川家康と臣従先を目まぐるしく変えた。無節操に見えるが、昌幸には定見があった。群雄割拠の時代にあって、小勢力である真田家の家門と独立を守り通すことに徹したのである。
天正15年(1585年)、由々しき事態が起きる。当時、昌幸は関東の覇権をめぐる北条と徳川のせめぎ合いの中で北条から徳川に乗り替えていた。その徳川が北条との間で和睦に動き、真田家になんの相談もないままに、真田領であった上州・沼田を北条に差し出すことにしたのだ。このままでは本拠の上田まで家康の思惑でいいように扱われ、真田家は滅びかねない。昌幸は徳川との戦いを決意する。
多勢に無勢の戦い方
とはいえ、真田領は沼田を合わせても10万石。対する家康は、駿河、遠江、三河に信濃、甲斐を合わせた138万石だった。軍事動員力は石高に見合うから勝負にならない。そこで昌幸は、宿敵の越後・上杉景勝(謙信の子)と同盟を結ぶ。
当時、豊臣秀吉と家康は小牧長久手で戦い、戦場では家康が勝ち、講和での政治力で秀吉が勝った。両雄の微妙なバランスが支配していた。秀吉は関東で勢力を伸ばす家康を押さえ込むため、謙信亡き後の上杉景勝に接近している。上杉との同盟で背後に秀吉の力をちらつかせることができる。忠義よりバランスオブパワーを重視する昌幸流の決断だった。
家康は上田城に7,000の兵を差し向ける。守る真田勢はわずか1,000のみ。しかし昌幸には勝算があった。背後に秀吉の影が漂えば、家康も長期戦はかなわない。とすれば、緒戦で徳川軍を叩けば、徳川は兵を引く。昌幸は、城の外に配置した200の兵に策を授けた。「軽く手合わせをしたら、すぐに城に引き返せ」。
敵は弱いと見た後を追って徳川勢は城下に攻め込む。昌幸は城下に火を放ち、混乱する徳川軍をあらかじめ配置しておいた伏兵が包囲し完膚なきまでに叩き撃退した。昌幸の完勝だった。こうして真田は領地を守り抜いた。外交と戦術、両面において知恵で勝った。
天下分け目では家を割る
それから15年。「忠義と家門」についての昌幸の考え方を示す機会があった。関ヶ原の戦い(1600年)である。昌幸は、そりの合わない家康を嫌い、石田三成方(西軍)につく決断をした。これに長男の信幸が意を唱えた。
「形勢は東軍(家康)に利あり」と譲らぬ信幸に対し、父はそれを認め、自分と次男の幸村は西軍に、信幸は東軍に味方することにした。
このとき、信幸が「万一、西軍が敗れれば、西軍に味方したものは必ず家康に殺されましょう。そのときは私が死力を尽くして父上と弟の危難を救い、真田の家が滅びないように尽力します」と言ったことになっている。しかし、おそらく息子二人を東西両軍に分けて、勝敗に保険をかけて家を守るという戦略は父昌幸の判断だったのだろう。「何があっても家門は守る」という彼の一貫した意志である。
昌幸と幸村は上田城で今度は関ヶ原に向かう徳川秀忠の徳川本隊三万の兵を迎え撃って釘付けにし気を吐き、長男信幸は関ヶ原で勲功を挙げて、信州松代藩を新領地に与えられた。約束通りの信幸の働きかけで、父と弟は死罪を免れて高野山の麓の九度山に蟄居となることで済んだ。
そして次男幸村は九度山を抜け出して大坂の陣で徳川軍と対峙し、最終決戦で家康本陣に駆け込み家康をいま一歩のところまで追い込んだ。昌幸のD N Aのうち、戦いの執念は次男に、家門を守るという強い意志は長男に引き継がれたのだ。
激動の時代を生きた真田家は、幕末まで藩主として生き延びたのだ。
最後に付け加えたいことがある。昌幸が少数の兵で天下の徳川軍を二度までも上田城で苦しめたのは、機略だけではなかった。領民たちが領主・真田家と一心同体となり支えたからだった。民衆は進んで城普請に協力し、軍糧米を持ち込んだ。
背景には、昌幸が年貢米を軽減し、領内の河川改修、道普請に努力し民を慈しんだことがある。上田、沼田だけではない。信幸が移封された松代でも同様だった。
これが老舗の長続きする秘訣である。一族の「家名」を守るのに必死なだけでは、店は長くは生きながらえられない。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『戦国武将の「政治力」−現代政治学から読み直す』瀧澤中著 祥伝社新書
『現代語訳 名将言行録』岡谷繁実著 北小路健、中澤惠子訳 講談社学術文庫