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- 逆転の発想(32) 強大な敵は利用してから排除する(徳川家康)
石田三成を助けた真意
豊臣秀吉が慶長3年(1598年)8月に没して、国の中央政治に権力の空白が生まれていた。秀吉の後継者である秀頼はまだ幼い。五大老・五奉行の合議体制で政権は運営されていたが、秀頼は単なる権威にすぎない。微妙な力のバランスの中で大老・奉行のだれもが秀頼を形式的に担いで実質的な権力を握ろうと水面下の権謀術数がうごめいていた。
翌年、秀頼の後見役の前田利家が死んで力のバランスが崩れ政治情勢は一気に動き出す。官僚派を率いる石田三成に対する加藤清正ら武弁派たちの不満が、一気に爆発する。清正らは三成征討に決起し、大坂城を逃れ伏見に逃れた三成を取り囲んだ。
朝鮮出兵に際して前線の目付け役だった三成は、城を放棄した武将、不要に前線を離脱した武将たちをリストアップして秀吉に報告した。これによって多くの武将が改易、減封された恨みが募っている。たとえていえば、靴底をすり減らして日々駆けまわる営業マンたちを率いる幹部たちが、社長の権威を傘に人事権を振り回してきた社長室周辺の幹部に対して、社長の死を機にクーデターに立ち上がったようなものだ。
「だれのおかげでお前たちは飯を食ってるんだ!」
秀吉亡き後、家康は伏見を拠点に行政を取り仕切っている。その足元で起きた騒ぎに、家康は清正らを説得して三成を逃がし居城の近江佐和山に蟄居させた。あえて三成を危機から救ったのである。
三成は家康排除の急先鋒だった。見殺しにすることもできた。労せずして政敵を一人消せる。しかしそれでは清正ら武闘派の政治力が強くなりすぎる。三成、清正の間を調停することで家康は天下の調停者としての地位を手に入れた。さらに彼には深謀があった。三成が恩義に感じて軍門に下るならそれもよし。でなくても、「三成はまだ使える」
敵をあぶり出すための遺言やぶり
天下取りの二手先、三手先まで読んで。目の前の盤面だけでは将棋の駒は打たない。家康の恐ろしいところだ。
秀吉死後、家康は天下取りに向けたある仕掛けを講じている。秀吉は遺言の中で、重臣たちの間での政略結婚を禁じた。大名たちが連合して秀頼包囲に動くことを防ぐためだった。家康はあえて伊達政宗、福島正則、蜂須賀家政ら有力大名たちとの縁戚関係を強化した。挑戦である。三成らが家康を大坂城に呼び出して詰問したが、結局うやむやになった。遺言への挑戦で家康は着々と味方を増やす。
さらに、この遺言破りによって、政界に「家康憎し」の世論を高め、敵と味方をあぶり出すリトマス試験紙にしたのだ。「それでもついて来るものが真の味方」だ。
さらに仕掛けはもう一つある。三成を佐和山に蟄居させた後、会津の上杉景勝に不穏な動きがあるとして、会津征伐を号令する。自ら指揮官として関東に向かい畿内を空にした。案の定、三成はチャンスとばかりに挙兵して伏見城を攻め落とす。家康に従うもの(東軍)と三成にくみするもの(西軍)がくっきりと二分された。関ヶ原の合戦は、一気に天下を掌握するための壮大な家康の仕掛けだった。
会津遠征軍を西に転回するにあたり、家康は諸将を集めて言う。「西軍に味方するものは、ここから去れ。とがめはしない」。東軍を離れるものはいない。決戦を前に結束は強まるばかりだ。すべて狙い通りなのである。三成を泳がせて、家康に不満を持つ勢力を一気に潰してしまう。三成は踊らされたのである。
不安を煽り足もとを見る
関ヶ原の戦いで、西軍最大の軍勢は総大将を務める中国地方の雄、毛利家である。毛利家臣筋の吉川広家を通じて、「動かぬなら合戦後に所領を安堵する」と工作し、毛利は動かない。関ヶ原後、大坂城から毛利輝元が一戦も交えず退去したのは、この工作による。
合戦前に決着はついていたのだ。
さて、所領を保証して取り込んだ毛利家だが、家康は果断を下す。中国8カ国の112万石から周防・長門の30万石に減封し、押さえ込んでしまった。
「強大な敵は利用してから消せばよい」。どこまでも家康流なのだ。
上杉謙信、武田信玄ら、「義」という道徳律に縛られた戦国時代の勇将たちには考えられない逆転の発想である。家康という男は、近世に生まれた“新人類”なのである。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『戦国武将の「政治力」−現代政治学から読み直す』瀧澤中著 祥伝社新書
『織豊政権と江戸幕府』池上裕子著 講談社学術文庫