「急ぎ帰国されたし」。明治6年3月、欧米視察中の大久保利通は、東京からの連絡を受けて急ぎマルセイユから帰路についた。
幕藩体制を倒し政権を握った維新政府は、前々年に右大臣の岩倉具視を全権大使として米欧へ遣外視察団を出した。
不平等条約改正の探りも兼ね、新政府の幹部打ち揃っての外遊中に、西郷隆盛の主導で留守政府は「征韓論」に傾いていた。
「これはまずい」。5月に帰国した大久保は、愕然とする。1年半にわたる欧米視察で、西欧列強の産業革命の有り様をつぶさに見た大久保は、欧米に追いつくには100年はかかると思い知らされた。
「まずは産業をおこし国力を充実させる必要がある。むやみに戦争を起こす余裕などない」。
見聞に基づく固い信念のもと大久保は、8月の岩倉帰国を待って巻き返しにかかる。
西郷隆盛と大久保利通。二人を抜きには、倒幕の成就はなかった。
ともに薩摩藩の下級武士として鹿児島の同じ町内で兄弟さながらに交流し育った。「肝胆相照らす以上の仲」と自他ともに認める関係にある。
その西郷は、維新によって禄(給与)を奪われ失業した全国の士族たちから、その不平を代表する総帥としてまつりあげられている。
その士族たちの不平を対外戦争に振り向ける。「内乱を冀(こいねが)う心を外に移して国を興す」(西郷)。それが「征韓論」の背景にあった。
王政復古から鳥羽伏見の倒幕戦争の過程で西郷は「武」を担当し、大久保は朝廷工作の「政」を担った。
企業でいうなら共同創業者ではあったが、維新の理想と目指す方向は大きく離れ始めていた。
情にほだされ下手に「足して二で割る」妥協をすれば、今後の方針は動揺し、派閥の葛藤を助長する。となれば決断しかない。
「屈辱的な不平等条約改正のためにも、まずは殖産興業、内政を固めるのが先決。この道理がわからぬなら、西郷といえども切り捨てるほかなし」と、大久保は決心する。
大久保得意の政界工作で、いったん決定された征韓の方針は覆された。
下野を決心した西郷は大久保邸を訪ねる。
「大久保どん、後はよろしく頼む」と情に訴え別れを告げる西郷に、「おれは知らん。勝手にすればいい」と冷たく言い放ち背を向けた大久保は、やがて西郷が戻った鹿児島を発火点に未曾有の内乱が勃発することも想定していた。 (この項、次週に続く)
※参考文献