武田軍を急追する家康の軍勢は、三方ケ原(みかたがはら)の台地上で迎撃戦闘態勢をとる敵に出会う。
武田軍は、各部隊を魚の鱗状に重ねて配置する「魚鱗(ぎょりん)の陣」を取っていた。
戦場に着いた家康は、戦力を横一線に置く「鶴翼(かくよく)の陣」を敷いた。
鶴翼の陣形は、圧倒的に数で優る場合、正面激突の間に左右両翼で相手を包囲殲滅する定石である。
しかし二万五千の敵に味方は一万一千しかいない。常識ではあり得ない布陣。一種の奇策だ。
雪の夕暮れ時に始まった戦闘は、緒戦こそ家康軍は鶴翼で敵を包囲して攻撃を仕掛けたものの、いかんせん少数では陣は薄い。正面を破られ、家康軍は敗走する。
命からがら浜松城に逃げ戻った家康は、震えが止まらなかった。逃走中の馬上で恐怖のあまり脱糞したとも伝えられている。
一方の信玄。浜松城を一旦は包囲したが、時間のかかる攻城戦を嫌い囲みを解く。
そして四か月後、三河を転戦して甲府への帰途、持病が悪化して死ぬ。
信玄の死によって存亡の危機を脱した家康は、「この敗戦を忘れまい」と、前回紹介した驚愕と失意の表情の肖像を描かせた。
敗戦によって家康が得た教訓は、精鋭相手に奇策は通じないということ。
しかしその後が、さすが家康という男、少し違う。自らを危地に陥れた憎き信玄による軍の統率法と「人は石垣、人は城」を実践した人事、統治原則に学ぼうとするのである。
家康は晩年、側近の酒井忠勝らに、こう語ったという。
「ある時は盟友として、ある時は敵としてよく観察すると、武田信玄の家法のようによく整ったものはない。だから武田の家法に則ってわが家の軍法を定め訓練させた。今もそれは変わらない。これからもそうあるべきだ」
三方ケ原(みかたがはら)の合戦から三年後。織田、徳川の連合軍は、三河の長篠(ながしの)の地で、信玄の遺児・武田勝頼の精鋭騎馬軍団を圧倒的な鉄砲隊の威力で打ち破った。
僥倖(ぎょうこう)とも言うべき桶狭間の戦いでの勝利から、「奇策とるべからず」を学んだ信長と、同じ原則を屈辱の敗戦から学んだ家康の必然の勝利であった。
信玄は、死に際して勝頼に、「これからは内政に努めよ」と言い残したが、勝頼は、軍団掌握より領地拡大を優先させ身を滅ぼした。
勝利からも敗北からも、敵からも身内からも学ぶべきことは多いという教訓である。
※参考文献