本能寺に主君である織田信長を討った明智光秀は、変から三日後の6月5日に信長の居城・安土城に入った。
朝廷からの使者を迎え、政権確立への手順を踏もうとしていた矢先の8日、京都から急報が入る。
「秀吉の軍勢が京都に向かっている」
「何?まさか、何かの間違いではないか」
それほど秀吉の動きの速さは、光秀の想定を裏切るものだった。
光秀は上洛を急いだが、ここで大きな失策を犯す。北陸で戦う信長の重臣、柴田勝家の反転に備えて安土周辺に多くの守備兵を残した。まさに天下分け目の決戦を前に兵を二分してしまったのだ。
対する秀吉は、素早く対峙する毛利との和睦をまとめ、後顧の憂いなく全軍を京に連れてくる。
6月13日、淀川をはさんで天王山と男山が迫る狭隘(きょうあい)の地、山崎に秀吉軍を迎え撃つ光秀軍は1万6000、対する秀吉軍は2万6500。
そして秀吉は前々日、昼夜兼行で到着した尼崎であるパフォーマンスをやってのける。髷(まげ)の元結(もとゆい)を切り、「主君の弔い合戦」であることを明確にしたのだ。
決戦に臨む兵たちの士気は上がる。さらに「正統性」の誇示によって、光秀から参集を呼びかけられていた諸大名も動きを止めざるをえない。
光秀が頼みとした丹後の有力大名である細川藤孝(幽斎)、忠興の父子も。
いや、細川父子は傍観どころか積極的に秀吉に加担したと見られる証拠がある。
変後に秀吉が書かせた『惟任退治記(これとうたいじき)』には、
「藤孝は、光秀一味にくみせず、秀吉と心を合わせ、備中表に飛脚を遣わし」と書かれているのだ。
光秀が頼りにした藤孝は謀反の計画を事前に聞いていた可能性がある。
高松城水攻めで苦心していた秀吉が、その藤孝からの注進を受けて急ぎ毛利との和睦を固めに入り、謀反の実行を確認するや間髪を入れず取って返す。
「勝兵はまず勝ちて、しかる後に戦い、敗兵はまず戦いて、しかる後に勝ちを求む」(『孫子』形篇)
戦いを前に、すでに勝負は決していた。
敗れた光秀は、落ちのびる途中で、落ち武者狩りの農民に討ち取られ無惨な最期を遂げた。(この項、次回に続く)