この稿の初回に、本能寺に主君である織田信長を討った明智光秀には「天下を取れるとの設計図があった」と書いた。設計図とは以下のようなものであっただろう。
(1)天下統一の最終作業に入りつつあった信長と敵対する毛利輝元、
長宗我部元親、上杉景勝らの有力大名たちは、信長が消えれば
攻勢に転じ、織田方の諸将は戦地に足止めにされる。
(2)その間に畿内を平定し天皇・公家たちを味方につければ、謀反
の悪評を乗り越え、正統性を得られる。
(3)有力大名のうち、娘の嫁ぎ先である丹後の名門・細川藤孝と忠
興の父子、妻の妹を正室に迎えた大和の筒井順慶らは、変後の
明智政権に与するのは疑いがない。
(4)気がかりなのは秀吉の動きだが、その台頭を嫌がる家康が兵を
動かして牽制するだろう。
(5)そして1の反信長の諸大名も巻き込んで連合政権をつくる。
「敵の敵は味方」というわけである。
変の後、まず動いたのは天皇周辺であった。
誠仁(さねひと)親王は「京の治安を維持せよ」と光秀に勅使・吉田兼見を送る。変の五日後に安土に入った兼見は、光秀と「今度の謀反の存分を雑談した」。つまり変の経緯と善後策について話し込んでいる。
おそらく光秀は、先に挙げた政権設計図を説明し、兼見は京に戻り天皇に上奏している。天皇と公家たちは光秀こそ信長の後の政権を担いうると確信した。
光秀は安土から四方に密使を送り、新政権に参画を促している。ここまでは設計図通りに進む。ところがである。
細川、筒井は光秀の催促にも立ち上がらない。変後に関して何らかの気脈を通じていたであろう家康も動かない。
期待の摂津衆のうち、キリシタン大名の高山右近は、イエズス会の司令を受け秀吉方についた。キリシタンを庇護した信長を討った光秀へのイエズス会の不安と反感である。
そして毛利方と電撃的和睦を結んだ秀吉の軍は、一日30、40キロの強行軍で京に近づいている。迎え撃つため安土から山崎を目指した光秀はこの時、自らが犯した誤算に気づいたに違いない。
だれもが、秀吉と光秀の決戦の成り行きをまず見たのである。「動くのはその後でも遅くはない」
光秀が机上で練り上げたクーデター設計図に致命的に欠けていたのは、この当たり前の人間心理への洞察であった。 (この項、次回に続く)