岩倉使節団の自尊心と先進国化への強い意志
明治4年(1871年)11月12日、明治政府の大使節団が横浜から米国船に乗ってサンフランシスコに向かった。全権大使に右大臣の岩倉具視(いわくら・ともみ)を充て、副使に参議の木戸孝允(きど・たかよし)、大久保利通(おおくぼ・としみち)、伊藤博文(いとう・ひろぶみ)を同行させる明治政府の要人が大挙して欧米視察に出かける威容であった。
藩の統治権限を廃止して、天皇中心の政府を樹立する中央集権体制への組み替えのめどがついたこの時点で西欧先進国の事情を探ろうという企画だ。古代の遣唐使にもなぞらえられるが、政府幹部がそろって2年近くも国を空けるというのは異常でもある。
背景には、江戸幕府が欧米列強から押し付けられた不平等条約の見直しが翌年に迫っていることもあった。政府をあげて、日本として開国して欧米の文明を導入して通商立国するとの強い意志を示し、不平等条約改正への足がかりを得たいとの思いがある。
使節団派遣に際して明治天皇は岩倉に対し、「日本は、欧米とは東西に分かれて体制が異なるとはいえ、本性は違いはなし」と激励し、わが国が西欧文明を早期に受け入れる潜在的能力を備えていることを強調している。
わが国は体制さえ整えば、西欧各国と伍していけるとの強い自尊心が窺える。
華夷秩序から欧米国際法の世界へ
幕末以来、日本では蘭学の研究から、欧米の考える国際秩序が万国公法(国際法)の受容によって成り立っていることを理解している。国家主権は、互いに王制、共和性と体制は違えども、軍事力と産業力に支えられて相互に不可侵のもので、国と国は条約によって交際するという平等の概念だ。
近代以前の東アジアでは、国際関係は華夷秩序によって形成されており、唯一の巨大国家(中華)と、中華から朝貢の恩恵を与えられた周辺国との間の保護関係でしかない。
欧米の国際秩序の考え方では、宗教を含め互いに同じ価値観を持つ第一類の国家間でのみ平等の条約締結は可能で、第二類国家として中国、トルコといった異世界の大国が存在し、そのほかの国は未開国として、欧米が自由に統治できると考えられている。
維新期のわが国は、日本は有史以来、中国が中心にある華夷秩序の外にある独立国家として欧米と対等だという自尊心がある。確かに歴史的に日本は隣国の朝鮮とは違って中国の属国の地位から逃れてきた。これが欧米列強に対処できた日本の特殊性だ。その先に日本の生きる道がある。アジアの国際秩序から抜け出し、欧米並みの「一国」として対等な国際関係を結ぶ。それが明治人の心を支配していた「脱亜入欧」のイデオロギーだ。
条約改正への遠い道
サンフランシスコでの歓迎式典で、英語でのスピーチを行った伊藤博文は、その意気込みをこう結んだ。
「わが国の国旗の中央にある赤い日の丸は、わが帝国を封印してきた印ではなく、これからは昇る朝日のごとき将来を示す徽章である。世界の文明諸国の間に伍して、前に、そして上方に昇る象徴である」
溢れんばかりの気迫だったが、出席した米国人の目が注がれたのは、岩倉全権の衣冠束帯姿とちょんまげだった。それが「未開」の象徴と見られることを恐れた一行は、アメリカの旅の途中で、岩倉のまげを落とさせ、洋装に改めさせた。
使節団は米国の後、英国、フランス、ドイツ、ロシア、イタリアなど12か国を訪問して1年10か月の旅を終えた。しかし、当初の目的だった条約改正問題は、どの国とも予備交渉にさえ入れなかった。各国からは、日本の法体系の不備と政治体制の近代化の遅れを指摘された。
一行が各地で痛感したのは、猛烈な速度で進む産業の高度化と軍備の近代化だった。富国強兵と殖産興業の必要を感じたのが唯一の成果だったと言える。同行した留学生43人は、日本の近代化の遅れに危機感を持ち、帰国したあと、各分野の制度整備、技術革新に大きな役割を果たすことになる。
関税自主権の回復を含む不平等条項が改正されるのは、明治末年まで待たねばならなかった。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
(参考資料)
『日本の近代2』坂本多加雄著 中公文庫
『日本の歴史 20 明治維新』井上清著 中公文庫