仏露両軍が激突したボロジノの戦いでは、終日続いた壮絶な戦闘でナポレオン軍が堡塁を確保し夜を迎えた。
ロシア軍の死傷者は4万4000。従軍した兵の40%に上る。ナポレオンも将軍43人を含む死傷者3万5000の大損害を蒙った。
堡塁を放棄したロシア軍は6キロ後退したから、表面上はナポレオンの勝利だが、その後の戦況を見ると、勝敗の判断は微妙だ。
ロシア軍の祖国防衛の戦意に衰えはない。堡塁周辺にロシア兵の屍が折り重なったが、捕虜となったものはわずか700人。
「撃ちてしやまん」の精神で敢闘したあと、ロシア軍の残兵は四散することなく、密集隊型で整然と撤退した。軍の統率力は維持されている。
戦闘後、ナポレオンはパリの皇后に送った手紙で、「捕虜数千人」と嘘を書き記している。当時の戦いでは、敵軍を瓦解させ、大量の捕虜を確保することで有利に講和へ持ち込むことが常であった。ナポレオンのこれまでの勝利も。
戦闘停止後、ナポレオンは余りに少ない捕虜に、「なぜだ」と絶句した。
ロシアの総司令官のクツーゾフは、ペテルブルグに「大会戦でボナパルト(ナポレオン)大敗北」と公式報告を送り、これが首都の教会で読み上げられると、貴族、市民たちの大歓声に包まれたという。
ロシアの国民作家、トルストイは『戦争と平和』の中で、「敵に相手側(ロシア)の士気の高さを思い知らせる勝利だった」と書いた。これが客観的な評価だろう。
敵撃滅のチャンスに判断を躊躇し近衛軍団を温存したナポレオンの中途半端な勝利が、ロシアの不屈の闘志に火をつけてしまった。
フランス革命の過程で、一砲兵指揮官から皇帝に登り詰めた英雄を支えてきたのは不敗神話であった。王制を打倒した革命の熱狂は、外に向かうナショナリズムにすり替えられ、負け知らずのナポレオンがその象徴となっていた。
血統に基づく王族と違い、ナポレオンの権力神話には、勝ち続けることが不可欠の要素であった。勝てぬとなると、常勝将軍の権力基盤は意外にもろい。それを知ればこそ、しゃにむに勝ちを求めて無理に敵を追う。
見透かしたかのようにクツーゾフは、翌日の夜明け前に、全軍を率いてモスクワに向け秘かに陣を払った。
ナポレオンは意気込んだ。「そら見ろ、敵は尻尾を巻いて逃げ出したぞ。モスクワの攻防戦こそ最終決戦だ」。敵の罠とも知らず。
(この項、次回に続く)