関ヶ原の合戦を知らぬものはないが、大きな誤解がまかり通っている。徳川家康が豊臣秀吉の遺臣たちを破り、天下人となった、という思い込みである。
秀吉びいきの多くの大阪人たちが、「家康だけは許せない」と、いまだに飲んでオダを挙げるのもこの誤った歴史理解による。
一般に「徳川軍」と呼ばれる、家康麾下のいわゆる「東軍」だが、その主力もまた秀吉の遺臣たちであった。
要は、秀吉亡きあとの政治体制のありようをめぐり遺臣たちが二分され、家康率いる「東軍」と、石田三成率いる「西軍」に分かれて、結着をつけたのが、関ヶ原なのだ。
三成と家康、どちらが好きかで分かれたわけではない。どちらがより嫌いかで、相手方についたという構図だ。求心力は弱いから、一つ間違えば、寝返りが起きる。
今にたとえて言えば、「維新の党」の分裂騒ぎのようなものである。橋下大阪市長・松井大阪府知事という癖のあるコンビが嫌いか、松野代表が嫌いかで、党員の行動が決まる。
決め手は、行方を観望する中間派をどう取り込むかにある。それが政治だ。
乱暴にいうなら、現代では政治工作の果ての選挙が勝敗を決める。戦国の世では、政治工作に加え、軍事力つまり戦争が最終的な決め手になったという違いがあるだけである。
積極的に戦列に加わる者も、消極的支持派も、「どちらの大将につけば、自分にとって有利か」を功利的に見極めようとする。
あちらか、こちらか。迷う心を決断させるのは、広い意味での利益誘導の力と、それを含むリーダーの人間力なのだ。それを見定める闘争の過程を、今も昔も政治という。
組織、企業、業界内の勢力争いも政治である。
慶長5年(1600年)9月14日夜半、大垣城に籠っていた三成以下の西軍は、雨降る中を決戦の地へ向かう。明けて15日未明、大垣からおよそ3キロ北西の陣でそれを知った家康率いる東軍も関ヶ原に踏み入れる。
立ちこめる朝霧の中、対峙する兵力については諸説あるが、ともに8万数千で拮抗している。
北国街道への出口の高みを押さえ、傾斜地形の上部に鶴翼(かくよく)の陣を敷き終えた三成は、勝利を確信した。 (この項、次回へ続く)