さて、人材の話である。いかなる組織も数(兵)が足りなければ募集すれば揃うが、人材(将)というとそうはいかない。
平時ならば、時間をかけた人材育成も可能だが、乱世となると悠長なことも言っておれない。人材を探し見極める目が必要となる。
中原の覇をめぐり、ビジネスなら三社が激しいシェア争いをしていた三国時代、華北の広大な地を占める魏は文官、武官あまたの人材を確保できた。後発の「中小企業」である蜀は狭い後背地での人材の確保は厳しかった。
蜀を打ち立てる劉備はまず武の才を求めた。三国志ファンに人気の高い関羽と張飛である。ともに劉備が故郷の涿(たく)郡で挙兵した際に地元の荒らくれのボスとして参加した。
劉備の戦いの前半で目覚ましい働きをした二人とも悲劇的な最期を迎えることとなる。
関羽。劉備が諸葛孔明、張飛を連れて北方の戦線に離れ、関羽ひとり魏の出城の樊(はん)城の包囲戦に苦戦していた。援軍を求めたが、諸将は言を左右にして来援と兵糧を送るのを渋った。関羽は逃亡の末、呉軍に捕らえられ斬られてしまう。
正史『三国志』は、関羽について、「下級兵士によくしたが、上司、同僚には横柄だった」と評している。
人気の秘密はこういう無頼で部下に情の厚い性格によるものだろうが、肝心の場面で、それが裏目に出て仲間に見殺しにされた。
張飛の性分は逆である。正史に「上司の受けはいいが、下の者には厳しかった」とある。部下が逆らうとすぐに殺し、あるいは鞭打った。
劉備は張飛の部下いじめを常に諌めたが、張飛は改めなかった。そして……。
関羽の死から二年後、劉備は弔い合戦の兵を挙げた。出発直前、張飛は、彼の仕打ちに恨みをもち呉に寝返った配下の将軍二人に殺されてしまう。
蜀は、乏しい人材をあまりにも無駄にしている。これでは大企業の魏を相手に勝てない。
孔明、関羽、張飛について、少し辛口過ぎたかもしれない。だが一般に読んでわくわくする三国志のエピソードは、ずっと後の明代に書かれた小説『三国志演義』に基づいている。
『三国志演義』は戦いの推移を『三国志』に基づきながら、自由自在に人物像を創作して活躍させている。蜀を正義、魏を悪党と割り切った講談調の勧善懲悪の“お話”なのだ。
小説から歴史を学ぶのは愚である。歴史には、我々と同じ等身大の人間たちの悲劇とそれを招いた原因がシンプルに描かれている。それを追体験して今に生かす。
でなければ、歴史に学ぶ意味はないのだ。