国運を懸けた日露戦争は始まった。外交交渉の決裂を見越して計画していた通り、陸軍は国交断絶から二日後の明治37年(1904年)2月8日には電撃的に韓国の仁川(インチョン)に上陸し、海軍は翌日、仁川港口でロシアの砲艦2隻を撃沈している。
しかし、財政面では長期戦を戦うための準備は整っておらず、「まずは攻撃」という無計画ぶりだった。その資金調達を日銀副総裁の高橋是清が任されたのである。まったくの付け焼き刃である。
いったい、どれだけの戦費がかかり、いつまでにどれだけの外債を募集しなければならないのか。ロンドンに向かう前にこれだけは確認しておかなければ、と高橋は考えた。軍は“勢い”で動かせるかもしれないが、財政は“計画”が第一に求められる。
会社でいえば、商機を見つければ、必要経費を要求し「行け行け」の営業と、経営全体を見渡して手綱をしめる財務の関係である。
井上馨、松方正義両元老が戦時財政をみるとこになり、開戦後、大蔵省幹部との間で評議が繰り返された。
そこでの議論は心もとないものであった。
「軍費総額は約4億5千万円。日清戦争と同じく三分の一の1億5千万円を正貨(金=ゴールド)で海外調達の支払いに充てる。日銀の正貨の余力は高橋君の調査によれば、5千万円。そこで1億円の外債を至急に起こさねばならない」
それでは国庫の正貨はなくなってしまう。となれば金本位制は維持できない。
1億円と言っても、今とは貨幣価値が違う。開戦前年1903年の国家予算の歳出が2億5千万円であるから、1億円の起債はとんでもない額である。
「付け加えるならば」と、大蔵省幹部は言った。「この計算は、韓国からロシア軍を一掃するだけの1年の戦費を見積もってある。もし戦いが鴨緑江(朝満国境)の外に続くようであれば、さらに戦費は追加せねばならぬ」
高橋はそれを聞いて、「一度の起債で済むわけがない」と覚悟した。
直前のポンド建て外債が失敗に終わったことは前回触れた。「私はまず広報役となろう。長期戦となるなら、今回の戦争の意義と勝算、ひいては日本という極東の一小国を国際金融界に知らしめ信頼を得る必要がある」
高橋是清は、2月24日、横浜から米国に向かった。まずニューヨーク金融界での感触を確かめたかった。
京城(現ソウル)以南を手中にした日本陸軍は、勢いに乗って平壌攻略戦に戦線を拡大しようとしていた。 (この項、次回に続く)