共産党中央から、「蒋介石を釈放せよ」との指令を受けて、蒋と交渉にあたる周恩来は世界の共産主義を主導するソ連のスターリンの自国第一主義の奇妙な圧力を強く感じていた。
当時のソ連は、ヒットラーのドイツとの開戦が迫る中で、東部戦線で中国を日本と戦わせることを優先課題とした。だが中国共産党は非力である。そこで蒋介石を押し立てて抗日戦に巻き込むことを選択したのだ。これに不満を持つ紅軍の首領・毛沢東も逆らえず渋々、スターリンの意向に従う。
しかし、周恩来の考えは違った。現実の国際政治の複雑な力学を瀕死の中国共産党の蘇生に生かせると考えた。積極的に、旧知の蒋介石との間で信義による妥協を目指したのだ。
周は、釈放の条件として、蒋介石からさらに重大で具体的な言質を目指し、得ている。
①紅軍が国民政府の指揮下に入るために、紅軍の軍費を国民政府が支援する
②抗日戦が始まれば共産党を合法化する―の2点だ。
この言質によって紅軍は、同盟軍となったクーデター主犯の東北軍と西北軍に浸透し、紅軍に引きこむことに成功する。共産党と紅軍はこれによって危機を脱し膨張を続けた。
日本の敗戦後、国民政府と共産党の蜜月は終わりを告げ、激烈な内戦を経て蒋介石は台湾に追い落とされる。共産中国の誕生は、周恩来の西安での交渉なしにはなかった。
クーデターを起こしたのもの、交渉の出口を見つけられず、周恩来の知恵と交渉力で事態を乗り切った張学良のその後どうなったか。
蒋介石との政治戦に自らの力で勝ったと誤解した張は、“救国の英雄”気取りで南京に乗り込んだが、したたかな蒋に捕縛され「反乱」の責任者として有罪判決を受け、半世紀にわたり幽閉されてしまう。
その後の周恩来の政治人生も平穏ではなかった。彼の政治・交渉力を嫉妬した毛沢東によって、日中戦争末期、西安事件での蒋介石との妥協について、自己批判を迫られている。
自己批判文にこうある。「私の品性上の基本的特徴は調和型であり原則性が欠如していることだ」。
粛清の危機を妥協によって毛沢東の指導下に降ることでしのいだ、まさに現実的な政治家であった。
「原則」を武器に党派闘争を繰り返した毛沢東が文化大革命を起こして中国を混乱に陥れた時にも、周恩来は持ち前の調和、妥協の党内交渉で収拾を図る。
交渉において、「現実的選択」は、毛沢東がこだわった「原則性」に勝る。そのことは、現実主義者の鄧小平が切り開いた、その後の中国の歴史が示している。