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- 逆転の発想(44) 自由な海が交易を促進する(貿易立国オランダの挑戦)
海の分割への反発
国際法の祖とされるオランダのフーゴー・グロティウスは1609年に著した『自由海論』の中で、「海は国際的な領域であり、すべての国家は海上で展開される貿易のために自由に使うことができる」と書いた。今なら当たり前の規範だが、世界の海がスペイン、ポルトガルによって二分されていた当時にあっては画期的な主張だった。
15世紀から16世紀にかけて、スペイン、ポルトガル両国は帆船を次々と冒険航海に送り出し世界規模での交易路を開拓していた。両国以外に遠洋航海に耐える大型帆船を持たなかったことから、海は両国の独占状態だった。ともにカトリック国だった両国の新天地への進出は、ローマカトリック教会の宗教面での世界布教、制覇の狙いと合致していた。
両国の利害の対立が激化するのを懸念したローマ教皇は、世界地図を線引きをして勢力圏を分割する。1493年に採択された「教皇子午線」である。
遅れて海洋進出に参入したのがオランダだった。オランダは宗教と切り離した貿易立国を目指し、1602年に東インド会社を設立し、出資者をつのり純然たる企業精神でインド洋から東南アジアにかけて香料を求め貿易に乗り出す。それに立ちはだかったのが同地域を縄張りとして教皇のお墨付きを得ていたポルトガルだった。ポルトガルは、地域の主要港湾をことごとく抑え、オランダの交易を陰に陽に妨害する。
海軍力ではオランダはポルトガルに太刀打ちできない。自分たちの交易を正当化するための理論が「自由な海」の理想だった。
グロティウスは、資源を持たない祖国の発展の道を自由な海に求めた。彼の理論は“遅れてきた国々”に夢と希望をもたらすことになる。ヨーロッパ世界で大きく支持を広げてゆく。国益をめぐる衝突に勝利するには、軍事力がなくても確固たる普遍的な理論で武装することが大きな力を発揮する。その教訓である。
海を囲い込む英国の変身
同じく、遅れて海洋進出に乗り出したイギリスは、新大陸、東南アジアの資源を中継貿易で大量にヨーロッパ市場に持ち込むオランダに手を焼いていた。オランダに先駆けて東インド会社を立ち上げたイギリスは、オランダ船から雪崩を打って流れ込む交易品の物量に音をあげた。そこでイギリスがとった対抗策は「法」であった。
航海法を施行し、外国船の同国海域への接近を禁じる。それまでロンドンのテムズ川を自由に航行して交易品を積み下ろしていたオランダ船を締め出した。さらに1651年にはイギリスとの貿易をイギリス船に限定した。沿岸での外国漁船の漁労も禁じる。さらにこうした海を囲い込む保護政策をとりつつイギリスは海軍力を強化して英蘭戦争に勝利し世界各地に植民地、港を確保し海洋権益を広げていった。
しかしイギリスはしたたかである。19世紀に入っての産業革命で一躍世界の工場となるや、各国に関税の引き下げを求め、各国の周辺海域での自由航行権を要求し、保護貿易から自由貿易へと国家運営の舵を百八十度切り返している。オランダの理論武装も、イギリスの態度豹変も、全て国益を起点とした動きである。国益のためにそれまでの常識とされてきたパラダイムをしなやかに逆転させる発想なのだ。
中国の野心と周辺国の懸念
こうした「自由な海」をめぐるここ数世紀の歴史をおさらいしてみると、強引な海洋進出を進める近年の中国の狙いが透けて見える。
日本が占有する尖閣諸島に対する執拗な領土主張と周辺海域への公船の接近、侵犯、南シナ海での一方的な領土主張と既成事実の積み上げ、海軍力の増強は、日本はじめ周辺国の大きな懸念を呼び起こしている。
読み解くカギは、中国が国連海洋法条約発効に先立って1992年に制定した「領海法」だ。その第一条にこうある。
〈中華人民共和国の領海に対する主権及び隣接区域に対する管轄権を行使し、かつ、国の安全及び海洋権益を守るため、この法律を制定する〉
「国の安全」と「海洋権益」を守るためには、国法が国際協約(国連海洋法)に優先している。そして第二条には、尖閣諸島、南シナ海のほぼ全域が「領土」として明記されているのだ。領有の実態以前に、法が定めた領土規定が優先される。そこに交渉の余地はないということなのだろう。
〈スペインもポルトガルもオランダもイギリスも、同じようにして強引に海洋進出を果たしてきたではないか〉、というのが、今や世界の工場の位置を占めるにいたった中国が「自由な海」の歴史から学んだ成果であったのだろうか。
世界常識では通用しない逆転した信念を持つ国、中国。この国との交渉には、譲ることなく粘り強く国際常識を主張し、その輪を広げるしかない。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『海の地政学』竹田いさみ著 中公新書