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- 高橋一喜の『これぞ!"本物の温泉"』
- 第25回 箱根湯本温泉(神奈川県) 人気温泉地で存在感を放つ素朴な共同浴場
■「本物の温泉」が楽しめる温泉地とは?
本コラムのテーマは、「これぞ!本物の温泉」である。「本物の温泉地の条件は何か?」と尋ねられたら、私はこう答える。「地元の人から愛される共同浴場(公衆浴場)があること」。
しかし、共同浴場が残る温泉地は、徐々に少なくなっている。温泉の目的が療養よりも観光がメインとなり、多くの団体客が訪れるようになると、共同浴場は大型の日帰り温泉施設へと姿を変えていった。
施設が大型化すると、湯船も大きくしなければならない。そうなると、温泉の質は二の次となり、湯を使い回しする「循環ろ過」とならざるを得ない。こうして多くの温泉地から、良質な湯を提供する共同浴場が消えていったのである。
一方、元気のある温泉地には、今も共同浴場が健在である。地元の人が普段から使用している湯がある温泉地は、温泉そのものを大切にする意識が強いのだろう。だから、共同浴場が残る温泉地には、上質の湯を提供する旅館や温泉施設が多い。「いい共同浴場があるかどうか」は、いい温泉地を見極めるバロメーターでもある。
■1951年開業の鄙び湯
首都圏随一の人気を誇る箱根湯本温泉にも、地元の人に愛される共同浴場が健在であることは、あまり知られていない。箱根湯本温泉を擁する箱根は、2019年の観光客数が2152万人、宿泊客は約470万人にのぼる。近年は外国人観光客にも大変な人気だ。まぎれもなく日本を代表する大温泉地である。
土産物屋が軒を連ねる賑やかな温泉街を横切り、早川にかかる橋を渡る。弥坂(やさか)という急坂を登りきり、箱根旧街道にぶつかると、「弥坂湯」が見える。1951年の開業以来、地元の人々を癒してきた共同浴場である。
いかにも共同浴場といった風情の建物は、いい具合に鄙びている。観光客の多くは、存在に気づくことなく、素通りしてしまうだろう。木をふんだんに使った番台も味わい深く、昭和時代にタイムスリップしたかのようだ。
初めて訪ねたのは10年ほど前。番台で対応してくれたおばあさんは、見慣れない私の顔を怪訝な表情で見ていたが、「初めて来ました」と告げると、クシャッとした笑顔で迎えてくれた。
「休日は、表(おもて)からもよく来るんだよねぇ」「表? ここ以外にも入口があるんですか?」「あ、表っていうのは、箱根町外っていう意味だよ」。町外からの入浴者は表というらしい。
浴室の中央に、まん丸の湯船がぽつんとある。青く細かいタイルが敷き詰められた湯船は、絵になる美しさである。
透明な湯は、100%源泉かけ流し。たえず新しい湯が投入され、湯船からあふれ出ていく。泉質は、アルカリ性単純温泉。くせのないやさしい湯だが、ほんのりと温泉らしい匂いがする。箱根湯本では、湯を循環ろ過している旅館や温泉施設も少なくないが、ここでは本物の湯が楽しめる。
■自然と会話が生まれる円形の湯船
入室したときには、観光客らしき3人組のグループが入浴していた。円形なので、車座になって、入浴者同士が向かい合うことになる。だから、自然と会話も弾む。
なぜか私は、地元の人間と間違えられてしまったようで、「このへんに、おいしい蕎麦屋はありますか?」と尋ねられた。グループ客の一人が言うには、「とても慣れた感じだったので……」とのこと。全国の温泉をまわっている身としては、そう言われて悪い気はしない。
3人組が上がったあとは、しばらく一人の時間を満喫。大きなガラス窓から、やさしい日の光が差し込む。たまに通りを走る車の音がするぐらいで、箱根とは思えない静けさである。
すると、突然扉を開ける音が響く。お客さんだと思ったら、番台のおばあさんだった。「石鹸もってなかったでしょ。置いとくよ」。アットホームな雰囲気に、心がほっこりとなる。この共同浴場があるかぎり箱根湯本は安泰だ。そんな思いを強くして、弥坂湯をあとにした。