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第146回 下風呂温泉(青森県) 海峡を望む「北の果て」に湧く硫黄泉

高橋一喜の『これぞ!"本物の温泉"』

■下北半島、港町の温泉地

 逃避行の旅路は、なぜか北を目指したくなる。都会の喧噪から離れることで、自分の心の行き場が見つかるような感覚があるからだろうか。逃避行やひとり旅など内省的な旅には、北の温泉地がよく似合う。

 下風呂温泉は、青森県・下北半島の海岸線に湯けむりを上げる温泉地だ。湯船でいっしょになった20代の若者は、一晩かけて埼玉県から下風呂まで車を走らせてきたという。

 「いろいろとむしゃくしゃすることがあって。目的地も決めずに高速に乗って北へ、北へと向かっていたら、ここにたどり着いた」とのこと。長い人生、そんな気分になることもあるだろう。

 下風呂温泉は、10軒弱の旅館が並ぶ港町の温泉地。「北の果て」という言葉が似合う静かな湯街である。ちなみに、下北半島の最北端にある大間温泉、桑畑温泉に次ぐ、本州で3番目に北に位置する温泉だ。

 歴史は古く、室町時代の地図にはすでに記載があり、江戸時代には南部藩の藩主が入湯した記録も残る。ニシン漁が盛んな時代には、漁師らの湯治場として栄えてきた歴史を持ち、現在でも温泉街の目の前にある漁港にはスルメイカなどの海産物が水揚げされる。

■3つの源泉に入り比べ

 作家・井上靖は小説『海峡』の最終章を執筆するために、津軽海峡が見渡せる下風呂温泉の旅館の一室に2晩滞在した。『海峡』は下北半島を舞台に、さまざまな人間が織りなす愛の交錯を描いた作品で、下風呂温泉は「いさり火の見える温泉」として紹介されている。

 「ああ、湯が滲(し)みて来る。本州の、北の果ての海っぱたで、雪降り積る温泉旅館の浴槽に沈んで、俺はいま硫黄の匂いを嗅いでいる」。小説『海峡』の一節である。

 温泉街の一角にある「海峡の湯」は、地元の人や観光客が気軽に立ち寄れる日帰り温泉施設。地元の人に愛されてきた「大湯」と「新湯」という2つの共同浴場が老朽化したことを受けて2020年に誕生した。館内には、井上靖が宿泊した旅館の部屋も再現されている。

 下風呂の源泉には、おもに大湯、新湯、浜湯の3つの系統があるが、青森ヒバをふんだんに用いた浴室には大湯と新湯が注がれた別々の湯船が並ぶ。いずれも白く濁り、硫黄泉に特有の強い匂いを放っている。

 大湯は酸性が強く、ガツンとした入浴感。細かな湯の花が舞う。一方の新湯は塩分が強めで、大きな湯の花がゆらゆらと漂う。大湯よりも少しまろやかな印象だ。投宿した旅館の女将によると、大湯派と新湯派に好みが分かれるとか。実際、浴室で観察していると、どちらかの湯だけに入浴している人が多いようだ。

 大湯と新湯、交互に浸かったが、体の芯まで温まる濃い湯で、5分も浸かっていると汗が噴き出してくる。地元の漁師さんは朝風呂で温まってから漁に出るそうだ。

 なお、投宿した旅館は浜湯の源泉を引いていたので、筆者は3つの源泉すべてに入浴することになったが、いずれも甲乙つけがたい、気持ちのよい湯だ。

■冬のあんこうが名物

 「海峡の湯」の食堂には、この地の特産である魚介類がメニューに並ぶ。名物は「あんこう定食」。風間浦村のあんこうは、全国的にも珍しい伝統漁法によって、ほとんどが生きたまま水揚げされる。「旬は12~3月頃。この時期は生きのいい状態で調理するから特においしいですよ」と店員さん。

 あんこうを刺し身で食べられるのは新鮮だから。生まれて初めて口にしたが、甘味の強い白身は絶品。そしてお待ちかねのあんこう鍋。あん肝などが溶けこんだ汁は、濃厚でうま味が引き立つ味わい。これだけで白飯を何杯もおかわりできそうだ。

 なお、東京からやってきた若者は「明日仕事だから今から帰ります。温泉に入ったらすっきりしました」と言い残し、南へ向かって車を走らせていった。

 

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