■原生林に囲まれた秘境の温泉
北海道のほぼ中心といえる場所に、トムラウシ温泉は湯けむりをあげている。日本百名山にも選定されたトムラウシ山(標高2141m)の麓に位置し、同山をはじめ大雪山系登山の拠点でもある。
「トムラウシ」の語源は諸説あるが、アイヌ語で「湯あか(湯の花)の流れるところ」を意味するという説もある。アイヌの人たちも、かつてこの地に湧く温泉で束の間の癒やしを得ていたのだろうか。
新得町の市街地から約60km先にあるトムラウシ温泉を目指して、車でぐんぐん森の奥へと分け入っていくと、みるみる人工物が少なくなっていく。厳しい自然に囲まれた土地だが、手つかずの豊かな自然が残る場所である。
最奥と思しき集落にある郵便局兼カフェ「山の交流館とむら」に立ち寄ると、小説家・宮下奈都さんの著作が積んであった。2016年本屋大賞の受賞作『羊と鋼の森』(文藝春秋)はお子さんの山村留学でこの地に滞在しているときに執筆されたそう。そういえば主人公の名前は「外村(トムラ)」だった。
調律の世界に魅せられた青年(外村)が、ピアノを愛する姉妹や先輩、恩師との交流を通じて成長していく姿を描いた、心温まる作品である。個人的にも好きな小説であるが、期せずしてその作品が生まれた舞台に足を踏み入れていたことに、心が躍った。
郵便局兼カフェを切り盛りする女性は、宮下さんとも交流があったそうで、いろいろとエピソードを聞かせていただいた。周囲にはお店もなく、特に冬は生活さえままならない厳しい環境であるが、それさえも愉しみながら暮らす様子が伝わってきて、すっかりこびりついた都会の価値観を激しく揺さぶられることとなった。
■こんこんと湧く98℃の源泉
それにしても空気がおいしい。凡庸な表現しか浮かばないので、宮下さんのエッセイ『神さまたちの遊ぶ庭』(光文社)の言葉を拝借する。「最初に空気を『おいしい』と表現した人の気持ちがよくわかる。空気にはほんとうに味がある。おいしい水と似て、口の中でまろやかで、きめが揃っていて、音符でいうとドレミファソのソみたいな澄んだ味」。そう、それくらい空気の純度が違うのだ。
さて、トムラウシ温泉までの最後の5㎞は未舗装のダート。心細さを感じていると、突然立派な建物があらわれる。一軒宿のトムラウシ温泉・東大雪荘だ。木造の「山小屋」のような建造物をイメージしていると面食らうこととなる。

チェックインを済ませ、そそくさと温泉へ。大浴場の扉を開けると、8mの高さがある天井と自然光が差し込む大きなガラス窓。そして数十人が入っても余裕がありそうな大きな湯船。北の大地にふさわしい豪快な空間だ。
湯船には、ゆで卵のような香りを放つ透明湯。98℃の高温の源泉を熱交換器で適温にしているため、湯の個性もはっきりとしている。泉質はナトリウム‐塩化物・炭酸水素塩泉で、まろやかな肌触りだ。
なお、宿のそばには学術的にも貴重とされる「噴泉塔」がある。温泉に含まれる成分が空気に触れて固まり、長い年月をかけて塔状になったものだ。温泉が自然の贈り物であることを実感させられる。
■秋は紅葉、冬は雪景色
数十人が同時に入浴できそうな大露天風呂には、目隠しとなる柵や壁も最低限しかない。原生林に囲まれた圧倒的な開放感。キタキツネやエゾリスなど野生動物がいつ姿を見せておかしくない。
訪問時、宿周辺の紅葉はピークで、露天風呂はまさに絶景だった。湯船の下をごうごうと流れるのは十勝川の源流・ユウトムラウシ川。対岸には赤、黄、緑の葉が重なり、色が溶け合っている。この時期だけの贅沢な景色を目に焼きつけた(紅葉の時期は例年9月末から10月中旬くらいまで)。
東大雪荘は雪深い土地にもかかわらず通年営業である。雪が降り積もる季節も、さぞかし絶景だろう。冬は連泊すると料金が割安になる湯治プランも用意されている。最寄りの新得駅から送迎してもらえるのもありがたい。
「次回は真冬の宿にこもり、雪景色の絶景を楽しもう」と、帰りの電車の中ですでに計画を立てていたのであった。


























