日宋関係の強化に乗り出す
平清盛の大きな歴史的功績は、農地経営を中心とする内向きの国家運営にとらわれていた古代国家のありようを、海外との交易、国内流通の活性化による商業国家への転換を目指したことだ。
保元・平治の乱での功績により朝廷を取り仕切る後白河法皇に取り入った清盛は、政治の中枢で確固とした地位を築いていく。
しばらく両者の蜜月が続く。その中で、承安元年(1171年)9月、中国南部を支配する南宋の使者から法皇と清盛あてに、贈り物とともに友好を求める書状が届く。書状は貿易都市・明州(現在の寧波=ニンポウ)の刺史(しし=地方長官)の名義で送られてきたが、これは南宋という国が刺史の名を借りて、日本との交易を求めるものに他ならない。
当時の南宋は、西方への内陸交易ルートを北方民族の侵入で絶たれたため、海を利用したアジア各国との海上交易の強化に乗り出していた。後段で述べる経緯で大陸事情に通じていた清盛は、これを国家経済発展のチャンスととらえた。それまで清盛から大陸の珍宝を折りに触れて献上されていた後白河も交易の本格化を望む。しかし朝廷の貴族たちは難色を示した。一地方長官が一国のトップあての書状で、法皇を「日本国王」と呼び一段低い属国扱いしていることが礼にかなわないというのが理由だ。形式論でしかない。清盛は、当時の南宋が日本の装飾品や様々な物資に大きな興味を持っていることを知っている。「名より実」と判断する。結論を出せないで紛糾する朝廷の議論を押し切り、翌年3月、返書を明州刺史に送った。
ここで清盛は、名分にこだわり書状の意味する重大さを理解できない貴族たちを説得する知恵を見せた。後白河法皇と相談した上で、清盛の名で返書を出したのだ。狭い貴族社会内の政治しか知らず外交の実務に疎い貴族たちは、こんな簡単な知恵さえも出せない堕落ぶりだった。
返書には、法皇と清盛から南宋皇帝あての高価な贈り物を添えた。ここに日宋貿易は本格的に始まる。
博多拠点を大輪田(神戸)へ移す
平氏の貿易志向は、清盛の父、忠盛(ただもり)の時代に始まる。1129年(大治4年)に山陽道、南海道の海賊追討使に任命された忠盛は、瀬戸内海に割拠する「海賊」と呼ばれた地方領主を屈服させて、同海域の自由航行を確保し、物資の自由なやりとりが大きな利益を生み出すことを体験した。さらに九州に派遣された後には、肥後(熊本)で地元の武士が細々ながら対岸の南宋との交易を行うのを知り自らの勢力下に組織する。
同じ武士でも、東国の武士は平安末に大きく進展した新田開発に固執し、〈一所懸命〉の言葉通り農地利権の確保にしがみつく〈農本主義〉の傾向が強い。対して西国武士は海運利用の交易、さらには、大陸、朝鮮半島と近い地の利を生かして、農業生産以上の利益を生み出す対外貿易にも目を向けていた。西国は〈重商主義〉の風土なのだ。
清盛も、法皇に取り入る過程で、太宰府の大弐(だいに=次官)の地位を手に入れるや、九州の武士たちを輩下に組み込むとともに、当時、唯一の公式対外交易港だった博多港を拡張、整備する。瀬戸内沿岸の武士たちも手なづけて海上の安全航行の確保に全力を注ぐ。
音戸(おんど)地峡を掘削して安全な瀬戸内短縮航路を整備し、南宋からの使者の迎賓施設として厳島神社の造営も行った。そして、博多港に変わる交易拠点として京都に近い兵庫に大輪田泊(おおわだのとまり=神戸港の前身)を設置、拡大してゆく。
通貨の活用の先に見据える商業国家
南宋との書状の交換を経て日宋貿易が公式化すると、大輪田泊には南宋の商船が次々と訪れるようになった。宋からは、質の高い陶磁器、香料や毛皮などのほか、書籍、筆墨などがわが国にもたらされる。日本からは、南宋の貴族が好んだ甲冑や刀剣、金、銀、真珠などの装飾品のほか、硫黄、水銀、米などの一次産品が輸出された。特筆されるのは、檜、杉、松などの高級木材が角材、板に加工されて海を渡ったことだ。当時の南宋では、主燃料だった石炭の産出地の北部中国を失ったため、代替燃料として大量の木炭を消費するようになって森林破壊が進み、日本の木材を強く求めるようになった。
日中間の交易構図は外交儀礼としての古代的朝貢貿易の域を脱して、互いに不足して欲するものを輸出入する新たな中世交易秩序が創始されたことになる。
新地平を切り開いたのは、清盛の国際的視野による決断だった。もちろんそれは、新時代の秩序確立に向けて激しい政治闘争を繰り広げる平氏一門にとって大きな財政的支柱となっていくが、清盛が見据えていたのはそれだけではない。
それはもう一つの輸入品に見ることができる。大量の貨幣(宋銭)を清盛は国内に持ち込んでいる。南宋は、商業国家として貨幣を利用した国内流通の革命的発展をもたらしていた。「これからの日本は貨幣の流通による商業の活性化を目指すべきだ」と清盛は見抜いていた。米以外の商品作物、商業産品も生産が伸び始めていた。経済的革新の土壌は整いつつあった。
しかし清盛の先見性は、同時に旧体制を担う朝廷の警戒心を刺激せざるを得なかった。後白河法皇は次第に清盛から離反し、平氏は悲劇の滅亡に向けて進みはじめる。 (この項、次回へ続く)
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『平清盛 天皇に翻弄された平氏一族』武光誠著 平凡社新書
『平清盛 「武家の世」を切り開いた政治家』上杉和彦著 山川出版社
『日本の歴史6 武士の登場』竹内理三著 中公文庫